忘却回廊の花

ミステリー

#ジャンル:ミステリー
#トーン:幻想的
#登場人物:青年と少女

目を覚ました時、タケルは暗く長い回廊に立っていた。壁には無数の扉が並び、それぞれに違う名前が刻まれている。だが、どの名前にも見覚えがなかった。自分の名前すら、彼は思い出せなかったのだから。

「ようこそ、記憶の回廊へ」

振り向くと、そこには白い服を着た少女が立っていた。長い髪が風もないのに揺れ、どこか現実離れした佇まいだ。彼女の瞳は深い湖のように澄んでいて、じっと見つめてくる。

「君は……誰だ?」
「案内人――そう思ってもらえればいいわ。さあ、進みましょう」

少女が手を差し出し、タケルは戸惑いながらもその手を取った。冷たくて、それでいてどこか安心する温かみがあった。彼女に導かれるまま、回廊の扉を一つ開けた。

――そこは、小学校の校庭だった。

光が降り注ぎ、子どもたちの笑い声が風に乗って耳に届く。木漏れ日が揺れ、少年時代のタケルが友達とボールを追いかけている姿が見えた。

「……僕の記憶?」

タケルは呆然と呟いた。自分の姿が、そこに確かにあるのだ。何もかもが懐かしく、胸が締めつけられた。しかしその光景の片隅には、少女が佇んでいた。あの頃の彼には見えていなかったはずの存在だ。

「次へ行きましょう」

少女の声に導かれ、次の扉を開ける。そこには十代の自分がいた。高校の教室、雨が窓を叩く午後。タケルは一人、ノートに詩を書いていた。切なさを纏った言葉の数々。――あの時、叶わなかった恋があったことをタケルは思い出した。

「これも……僕?」

彼の視線の先に、再び少女が現れた。記憶の中に紛れ込んだかのように、彼女は静かに微笑んでいる。タケルは胸騒ぎを覚え、彼女に問いかけた。

「君は、誰なんだ? どうして僕の記憶にいる?」
「最後の扉で分かるわ。真実が、そこにあるから」

回廊の終わりは光に包まれていた。最後の扉を開けると、一面の草原に白い花が咲き誇っていた。風が優しく吹き抜け、タケルの足元に一輪の花が揺れている。触れた瞬間、頭の中に一気に記憶が流れ込んだ。

――少女の名はミユキ。彼が初めて愛した人だった。

あの夏の日、二人は約束を交わした。けれど運命は残酷で、彼女は事故で命を落とした。タケルは彼女との思い出を封じ込め、忘れることで心を守ったのだ。

「忘れたかった。でも、本当は……忘れたくなんかなかったんだ」

涙が止まらなかった。白い花を抱きしめると、少女――ミユキが目の前に立っていた。柔らかく微笑んで、タケルに語りかける。

「思い出してくれてありがとう。あなたが前に進むために、私はここにいたの」

タケルは涙を拭い、顔を上げた。彼女の姿は光に包まれ、ゆっくりと消えていく。その時、タケルは確かに彼女の声を聞いた。

「これからも、あなたのことをずっと――」

目を覚ました時、タケルの手には一輪の白い花が残されていた。回廊の記憶はもうぼんやりとしていたが、心には温かい何かが残っていた。

「忘れないよ……ありがとう」

彼はその花を大切に胸に抱きしめ、新しい一歩を踏み出すのだった。