#ジャンル:日常
#トーン:ほのぼの
#登場人物:大学生
美咲が引っ越してきたのは、大学から徒歩15分のアパートだった。築年数が経っているせいか家賃が安く、学生にはありがたい物件だった。小さなキッチンと六畳一間の部屋、それにベランダがついているシンプルな作り。特別なことは何もないはずだった——少なくとも最初はそう思っていた。
引っ越し初日の夕方、美咲が荷物を片付けていると、ベランダから誰かの声がした。
「そこのお嬢さん、これをどうぞ。」
顔を上げると、隣のベランダに白髪の老婦人が立っていて、手に一輪の花を持っていた。
「あ、ありがとうございます!」
戸惑いながらも花を受け取ると、老婦人はにっこり微笑んだ。
「名前は美咲さんと言うのね。さっき荷物に書いてあったわよ。」
それからというもの、老婦人はときどき花や果物をベランダ越しに差し出してくれるようになった。話を聞けば、彼女は趣味で庭いじりをしているらしい。美咲は最初こそ戸惑っていたが、その優しさに次第に心が温かくなっていった。
ある夜、美咲は突然目を覚ました。部屋の中は静まり返っているが、どこからかかすかなピアノの音が聞こえる。静かで穏やかな旋律は、心に不思議な安らぎを与えるものだった。翌朝、階段で偶然会った青年が、その音の主だと知ることになる。
「昨晩、ピアノを弾いてました?」
美咲の問いに、青年は少し驚いた顔をしたが、すぐに笑みを浮かべた。
「聞こえちゃいましたか。ごめんなさい、夜中に弾くのが癖で。」
彼の名前は涼太。音楽大学の学生で、時々アルバイトの合間にピアノを練習するという。涼太の弾く音楽は、美咲にとって不思議な魅力があり、次第に彼との会話が日常の一部となっていった。
アパートの住人たちは皆どこかしらユニークだった。下の階に住む若い夫婦は、手作りのお菓子をおすそ分けしてくれたり、廊下で出会うたびに陽気な挨拶を交わしたりした。そんな些細なやり取りが、美咲の新しい生活を少しずつ彩っていく。
ある日、美咲が老婦人からもらった花をベランダの鉢に植え直していると、涼太が声をかけてきた。
「花、好きなんですね。」
「ええ、特に最近は身近なものがこんなに心を豊かにしてくれるなんて思わなかった。」
その言葉に涼太は頷き、少し考え込むような表情を見せた。
「じゃあ、次は花に合う曲を弾いてみますよ。」
それ以来、美咲の生活には、涼太のピアノや老婦人の花が欠かせない存在になった。いつしか彼女は、このアパートの住人たちとの出会いが、自分にとって特別なものだと気づいていった。
「このアパートって変わってますよね。」
ある夜、涼太がふと呟いた。
「でも、そういう場所だから面白いんじゃないですか?」
美咲は微笑みながらそう答えた。
日常の中に溶け込んだ奇妙なご近所さんたち。その存在は、美咲の新しい世界を広げ、未来への期待を静かに膨らませていった。