#ジャンル:ミステリー
#トーン:幻想的
#登場人物:プール監視員
夏の夜、空気が重く湿り、虫の鳴き声が響く中、市民プールの監視員・亮太は清掃を終え、鍵をかけようとしていた。そのとき、薄暗いプールサイドに人影が見えた。
「すみません、もう閉館ですよ」
呼びかけると、白いワンピースを着た女性が振り返った。長い髪が夜風に揺れる。彼女は視線を泳がせながら、小さく呟いた。
「まだ帰れないんです。水の中に、彼がいるから」
亮太は一瞬耳を疑った。
「水の中に……誰かいるって?」
女性は頷き、プールの水面をじっと見つめた。その表情は切実で、冗談を言っているようには見えない。
「閉館後に勝手に入られると困ります。それに、中に誰かいるなら危険です。確かめますから、少しここで待ってください」
亮太は懐中電灯を手に、プールの端から端まで照らした。透明な水は静かに揺れているだけで、人影はどこにもない。
「誰もいませんよ」
そう告げると、彼女は深く息を吐き、首を振った。
「見えなくても、いるんです。私にはわかります……彼の声が聞こえるんです」
困惑する亮太だったが、彼女の言葉にはどこか引き込まれる力があった。彼女の話を聞いているうちに、不思議な既視感を覚え始めた。まるで、その水中の「彼」を自分も知っているような感覚。
翌日以降も、彼女は夜な夜なプールに現れた。亮太は最初は追い返そうとしたが、次第にその理由を尋ねるようになった。彼女の名は沙耶。数年前、このプールで恋人を失ったという。
「彼は泳ぐのが得意でした。なのに、突然沈んでしまったんです。誰にも信じてもらえないけれど、あの日以来、彼の声が聞こえるんです。彼が『ここにいる』って……」
亮太はその言葉に戸惑いながらも、次第に彼女の訴えに耳を傾けるようになった。そして、ある夜、沙耶が突然水面を指差した。
「ほら、今……そこに」
亮太が指差す先を見ると、水面が静かに揺れていた。風のせいだと思い込もうとしたが、まるで誰かが水の中から手を伸ばしているようにも見える。心臓が高鳴るのを抑えながら、亮太は足を踏み出した。
プールの縁に立ち、水面をじっと見つめる。すると、微かな声が聞こえた。
「……助けて……」
亮太は思わず振り返ったが、沙耶は何も言っていない。ただ、彼女も水面を見つめていた。
翌日、亮太はプールの管理記録を調べた。そこで数年前、沙耶の話と一致する事故の報告を見つけた。溺れた男性は、沙耶の恋人だったらしい。しかし、遺体は見つからなかったと書かれていた。亮太の背筋が冷たくなった。
その夜、亮太は沙耶に提案した。
「彼がいるというなら、一緒に確かめてみよう。きっと君の心の整理にもなる」
沙耶は戸惑いながらも頷いた。プールに浸かり、二人で静かに水の中を覗き込む。そのとき、亮太の足元に何かが触れた感覚がした。瞬間的に水を掻くと、暗い水中に微かに光る人影が見えた。
その姿は徐々に浮かび上がり、やがて沙耶の涙声が夜の静寂を切り裂いた。
「あなた……!」
人影は一瞬だけ微笑んだように見えた。そして、次の瞬間、ふっと消えた。
亮太は沙耶をそっとプールから引き上げ、彼女が涙を拭うのを待った。
「これで、もう自由になれますね……」
沙耶の言葉に、亮太は深く頷いた。
それ以来、沙耶はプールに現れなくなった。しかし、亮太は夜のプールの静けさの中に、彼女の恋人の笑顔を時折感じるようになったという。