#ジャンル:ドラマ
#トーン:切ない
#登場人物:高校教師
退職の日の朝、高校教師の彩は緊張感を抱きながら学校へと向かっていた。二十年以上勤めたこの学校とも今日でお別れだ。机に座る生徒たち、廊下で交わされる笑い声、黒板にチョークを走らせた感触――これが最後だと思うと、胸が締めつけられるようだった。
ホームルームが始まる前、教室に入ると生徒たちは一斉に立ち上がった。
「先生、お疲れ様でした!」
拍手とともに、教室中に張り巡らされた飾り付けと、机に並べられた色とりどりの花束が目に飛び込んできた。彩は目を丸くし、言葉を失った。
「これ、私たちからのサプライズです!」
リーダー格の生徒が笑顔で言う。
彩は涙をこらえながら、ありがとう、と小さく呟いた。その瞬間、教室の扉がそっと開き、一人の男性が入ってきた。
「こんにちは、先生。」
聞き覚えのある声に振り返ると、そこに立っていたのは十年前の教え子、和也だった。彼は今やすっかり大人の男になり、その背中には当時の面影がかすかに残っている。彩の心臓が一瞬、早鐘を打つ。彼は大学受験の時期に突然学校を辞め、彼女の前から姿を消した生徒だった。
「どうしてここに……?」
彩の問いに、和也は笑顔で答える。
「彩先生が退職されるって聞いて、最後の授業にどうしても出たくて来ました。」
彼の手には一輪の白いカーネーションが握られていた。
授業が始まると、生徒たちは和也が加わったことでどこか興奮気味だった。和也も学生時代に戻ったように話し、笑い、手を挙げて発言する姿に彩は懐かしさを覚えた。ふと目が合うと、彼が意味ありげに微笑む。胸の奥で何かが揺れた。
授業の終わり、黒板に書かれた「未来へ」という文字を前に、彩は最後の言葉を生徒たちに向けて話した。
「先生はみんなに教える立場だったけど、実はたくさんのことを教わってきました。これからも、みんならしく前に進んでください。」
涙を浮かべた生徒たちが駆け寄ってきて、教室は拍手と笑い声に包まれた。その中で、和也が静かに立ち上がり、彩に近づいた。
「これ、俺が昔、どうしても伝えられなかったことです。」
和也がカーネーションを差し出す。その視線はまっすぐ彩を見つめていた。
「俺、先生にずっと感謝してる。学校を辞めたとき、先生がくれた言葉のおかげで今の自分があります。」
かつての記憶が鮮明に蘇る。彼が進路に悩み、苦しんでいたあの日、彩が彼の背中を押したこと。その言葉が彼に届いていたとは思いもしなかった。
「……ありがとう、和也君。」
彩はカーネーションを受け取り、心から微笑んだ。
その日、学校を後にした彩は、校門の外で和也に声をかけられた。
「これからは、先生じゃなくて彩さんって呼んでもいいですか?」
彩は驚きつつも、微笑んだ。彼の目にはかつての少年ではない、大人のまっすぐな意志が宿っている。
「ええ……それでいいわ。」
和也は優しく笑い、「これからも時々会えたら嬉しいです」と言った。
その言葉は彩の新たな一歩をそっと後押しするものだった。教師としての人生を終えた彩には、新しい物語が始まろうとしていることを、彼が教えてくれたのだ。