伝説の湖と最後の一投

ドラマ

#ジャンル:ドラマ
#トーン:感動
#登場人物:釣り師

冬の冷気が漂う湖畔。凍てつく空気の中、霧が水面を覆い、湖はまるで神秘のヴェールをまとったかのように静まり返っていた。

「ここが……あの幻の魚がいるっていう湖か」

若手釣りユーチューバー・涼は、隣に立つベテラン釣り師・剛志の横顔を盗み見た。剛志は50代半ば、鋭い眼差しと長年の経験が刻まれた顔には、一つの決意が滲んでいる。

「伝説の主《ぬし》が現れるのは、夜明け前だと言われてる。準備を怠るなよ」

剛志の言葉に、涼はゴクリと唾を飲んだ。彼にとって、この湖は単なる噂話の舞台に過ぎなかった。SNSやフォロワーのために訪れた「釣りスポット」のひとつ。だが、剛志にとっては違った。

彼が長年追い求めてきた”伝説の巨大魚”。その魚影を一度も捉えたことはない。噂はあるが、誰一人、確かな証拠を残せていない。剛志はこの湖に最後の勝負を賭ける覚悟でいた。

「引退しちまうのか?」

涼の問いに、剛志は黙ったまま竿を投じた。水面に広がる波紋が、過ぎ去った時間のように儚く広がる。

「俺も歳だ。昔みたいに何日も粘れる根性もない……もう潮時だろう」

夜が更けるにつれ、寒さは一層厳しくなり、凍てつく湖面が静寂に包まれる。二人はじっと竿先を見つめたまま、時間だけがゆっくりと過ぎていった。

ふと、涼が静かに口を開いた。

「……でもさ、まだ何かを掴めるかもしれないだろ?」

剛志は微かに笑い、かじかんだ手で竿を握り直す。

そして――その瞬間だった。

「……来た!」

剛志の声が湖畔に響く。竿が大きくしなり、強烈な引きに彼の腕が震えた。まるで湖の底から何かに引きずり込まれるような感触。剛志の手に伝わる重量感は、今まで感じたことのないほどのものだった。

「これが……伝説の主か!」

涼はカメラを回しながら、驚愕の表情を隠せない。剛志は全身の力を込め、必死にリールを巻き上げる。ラインが水を切る音が、緊張感を増していく。

時間が止まったような数分間の格闘。

ついに、湖面に巨大な影が浮かび上がった。月明かりが照らすその姿は、古びた言い伝えを超える神々しさを放っていた。銀色に輝く鱗、堂々たる体躯。その姿は確かに”伝説”と呼ぶにふさわしいものだった。

「……剛志さん、すげぇ……本当にいたんだ」

だが、剛志の目には静かな涙が浮かんでいた。長年追い求めた夢が、今、彼の手の中にある。だが、それを捕らえるべきなのか。

剛志は静かに竿を緩め、魚の姿を湖に返した。

「……長い間、ありがとうな」

水面に戻った巨体は、ゆっくりと湖の闇に消えていった。

涼は唖然としていた。「なんで逃がしたんですか!?あんなの、絶対に歴史に残りますよ!」

剛志は小さく微笑み、静かに竿を畳む。

「俺は、あいつを追い続ける時間を楽しんでいたんだ。釣りってのは、釣ることが全てじゃない。待つ時間、思い続ける時間も、釣りの一部なんだよ」

涼はその言葉に何も言えなかった。ただ、胸に何かが熱くこみ上げてくるのを感じた。

剛志は最後に湖に目を向けると、静かに言った。

「もう一度、ここに来ることがあるかもしれないな」

夜明けの光が湖を優しく照らし始めていた。