通勤電車の幻影

ミステリー

#ジャンル:ミステリー
#トーン:緊張感のある
#登場人物:会社員

 朝の通勤電車は、相変わらず地獄だった。満員の車内に詰め込まれ、押しつぶされながら、拓海は虚ろな目で吊革を握っていた。

 スーツの襟元は湿った空気で重たく、背中に感じる他人の体温が不快だった。毎朝同じ時間、同じ電車に乗り、同じように消耗していく。会社に着く頃には、すでに一仕事終えたような疲労感があった。

 そんなある朝、ふと隣の車両に目を向けた拓海は、思わず息をのんだ。

 そこに、自分と瓜二つの男がいた。

 見間違いかと思った。だが、男の顔立ちは鏡で見慣れた自分のものと変わらない。違うのは、その男の装いだった。

 男はカジュアルなシャツにジーンズを着て、楽しげに新聞を広げていた。どこか余裕のある表情で、時折微笑みながらページをめくる。その姿は、同じ電車に揺られているとは思えないほど、自由だった。

 「……何だ、あれ?」

 拓海は思わず目をこすった。しかし、男の姿は消えない。それどころか、翌朝も、また翌朝も、彼は同じ車両の同じ場所に座っていた。

 これは、なんなのだろうか?

 双子の兄弟などいない。偶然にしては、似すぎている。だが、周囲の乗客は何事もないかのように過ごしている。拓海だけが、この異変に気づいているようだった。

 日に日に、拓海の中で現実感が薄れていった。あの男は、本当に存在しているのか? それとも、疲れ果てた自分の幻覚なのか?

 いっそ確かめてみよう——そう思ったのは、異変に気づいて一週間が経った朝だった。

 拓海はいつもより一本早い電車に乗り、あの男がいるはずの隣の車両へ向かった。人波をかき分け、慎重に進む。

 そして、男がいつも座っているはずの座席を見た。

 そこには——

 誰もいなかった。

 「……嘘だろ」

 あれだけ毎朝いたはずの男が、今日はどこにもいない。やはり幻覚だったのか? そう思いかけたそのとき、不意に誰かの視線を感じた。

 ——違う。いる。

 拓海は背筋を凍らせながら、ゆっくりと顔を上げた。

 車両の窓に映る自分の姿。

 その隣に、あの男が映っていた。

 男は、拓海の方を見て、静かに微笑んだ。

 そして、口を動かした。

 「——こっちへ来い」

 拓海は、はっとした。耳で聞こえたのではない。だが、確かにそう言ったと理解できた。

 気づくと、電車の速度が上がっていた。窓の外の景色が、普段よりも速く流れていく。まるで、このまま別の世界へ連れていかれるかのように——。

 次の瞬間、電車が駅に滑り込み、扉が開いた。

 拓海は、どちらへ進むべきか迷った。

 このまま会社へ向かうか、それとも……。

 迷っている間に、ドアが閉まる。

 気づけば、拓海はまたいつもの車両に戻っていた。

 あの男の姿は、もうどこにもなかった。

 翌朝から、拓海はもう彼を見ることはなかった。

 だが、心の奥底に、彼の言葉がこだまする。

 「こっちへ来い」

 それは幻だったのか、それとももう一人の自分だったのか。

 答えはわからない。ただ、拓海はあの日からずっと、満員電車の中で考え続けていた。

 自分が、本当に行くべき場所はどこなのか、と。