#ジャンル:ミステリー
#トーン:緊張感のある
#登場人物:探偵
夜になると、街は霧に飲まれる。
それはただの自然現象ではなく、もっと不気味で、もっと底知れぬもの――。
だからこそ、この街の住人は“霧の向こう”に消えた者たちを、二度と見つけることができないのだった。
「九条先生、お願いです! 娘を探してください!」
事務所に駆け込んできたのは、蒼ざめた表情の女だった。名を佐伯春江という。彼女の娘、美咲が三日前から行方不明になっているという。
「最後に会ったのは?」
「家を出るときです。その前から少し様子がおかしくて……『霧の中に何かいる』と怯えていました」
九条は短く息をついた。この街で“霧”が関わる失踪は少なくない。しかし、その行方を追えた者はいなかった。
「警察は?」
「探してくれています。でも……無駄だって、みんな諦めているんです」
女の手は小刻みに震えていた。
「引き受けましょう。ただし、報酬は“見つけたときに”でいい」
女は何度も頷いた。九条は懐から銀色の懐中時計を取り出し、文字盤を見つめた。それは彼が“幻影探偵”と呼ばれる理由のひとつだった。
この時計が指し示すのは、消えたものの“輪郭”
九条はゆっくりと霧の街へと歩を進めた。
霧の濃さが増すほどに、街の輪郭は曖昧になっていく。
古びたアパートの廊下、割れたランプの下でうずくまる浮浪者、消えかけた電柱の影――それらすべてが、ぼんやりと形を失っていく。
やがて、懐中時計の針が震え始めた。
霧の中心が近い。
彼は足を止め、目を凝らした。その先に、微かに揺れる人影が見える。
「……美咲?」
少女の名を呼んだ瞬間、周囲の景色が歪んだ。
霧の向こうに広がっていたのは――異形の街だった。
崩れかけた建物が宙に浮かび、ありえない方向に伸びる街灯が道をねじ曲げている。無数の影が壁の中を蠢き、どこからともなくささやく声が聞こえてくる。
「見つけた……」
そこに立っていたのは、美咲だった。
彼女は薄れかけた輪郭で、こちらを見つめていた。
「帰るぞ」
九条が手を伸ばす。しかし、美咲は首を横に振った。
「戻れないの」
「なぜだ?」
「ここは……私がいた場所だから」
その瞬間、霧の中から幾つもの手が伸び、美咲の体を包んだ。
「やめろ!」
九条は懐中時計を掲げた。すると、霧の中に閉じ込められた“記憶”が、一瞬だけ可視化された。
――薄暗いアパートの一室。少女はいつもひとりで、窓の外の霧を見つめていた。
――「霧の中に入ったら、帰れないよ」
――「でも……ここにいたら、私なんて誰も見つけてくれない」
彼女は、もともと“消えかけていた”のだ。
「なら、俺が見つけた」
九条は強く彼女の手を握った。
霧が裂け、異形の街がゆっくりと崩れ始める。
「帰ろう、美咲」
少女は、一瞬だけ躊躇した。だが、次の瞬間、彼女の輪郭がはっきりと現れた。
朝になったとき、九条は事務所に戻っていた。
椅子に座る美咲が、眠るように丸まっている。
春江が涙を流しながら娘を抱きしめた。
九条は懐中時計をしまい、煙草に火をつける。
霧の街の幻影探偵――九条の仕事は、まだ終わらない。