#ジャンル:ミステリー
#トーン:切ない
#登場人物:バーテンダー
そのバーは、薄暗く、静かな場所だった。
夜遅くまで賑わう華やかな店とは違い、ここには物静かな客ばかりが訪れる。人生に疲れた者、過去に取り憑かれた者、孤独を愛する者。そういう人間がふらりと立ち寄り、酒を飲み、黙って帰る。
春樹は、そんなバーで長年バーテンダーをしていた。
特に印象的な客がいた。
ユリという名の女性。
彼女は毎晩、決まった時間に現れ、同じ席に座る。そして、注文するのは決まって一杯のカクテルだった。
「最後の注文を」
そう言って、微笑む。
彼女が頼むのは“エターナル・サンセット”というカクテル。
オレンジリキュールの甘さと、ほろ苦いアペロール。琥珀色に沈むグラスの中に、まるで黄昏の太陽が閉じ込められているようだった。
「このカクテルを飲むと、不思議と心が落ち着くの」
ユリはいつもそう言いながら、一口ずつゆっくりと味わっていた。
春樹は彼女が何者なのか、深く詮索したことはなかった。バーには、語られない物語が溢れている。誰もが何かを抱え、それでもここに訪れる理由がある。
ユリの目は、どこか遠くを見つめていた。
そんな日々が、ある日、突然終わった。
その夜、彼女はいつものようにやってきて、”エターナル・サンセット”を注文した。
だが、グラスを傾ける前に、ふと春樹を見つめ、こう言った。
「私の役目は、今日で終わり」
春樹は思わず手を止めた。
「……どういう意味ですか?」
ユリは優しく微笑んだ。
「長い間、ありがとう。あなたの作るこのカクテル、大好きだった」
そして、最後の一口を飲み干し、静かに立ち去った。
春樹は、彼女が消えた扉の向こうをぼんやりと見つめていた。
次の日、新聞を読んで、息が詰まった。
『10年前に失踪した女性の遺体が、山中で発見される』
記事には、ユリの写真が載っていた。
──彼女は、10年前にこの世を去っていたのか?
ならば、春樹が出会っていた彼女は?
彼女が最後に飲んだカクテルの意味は?
”エターナル・サンセット”──永遠の黄昏。
夕日が沈み、夜へと溶ける一瞬の美しさ。
彼女は、ずっと”夜の訪れ”を待っていたのだろうか。
春樹は静かにグラスを磨き続けた。
ユリの姿はもうない。
だが、彼の手の中には、琥珀色のカクテルが残っていた。