#ジャンル:ミステリー
#トーン:不思議な
#登場人物:郵便配達員
朝霧が町を覆う頃、玲奈はいつもより慎重に自転車を走らせていた。郵便配達員になって五年、この町の道は隅々まで知り尽くしているはずだったが、霧が深くなると不思議と迷うことがある。それはまるで、町が別の世界と繋がってしまったかのようだった。
その日、玲奈の郵便バッグの中に、一通の奇妙な手紙が混じっていた。
——「霧の向こうの君へ」
消印はなく、宛名も住所も書かれていない。ただ、封筒の表には美しい筆跡でそう記されていた。
不思議に思いながらも、玲奈は仕事を続けた。配達が終わる頃には霧が晴れ、町はいつも通りの穏やかさを取り戻していた。しかし、翌朝、同じ手紙がまた郵便バッグの中に入っていた。
「誰かの悪戯?」
そう思いながらも、玲奈は手紙を誰かに届けようと決めた。だが、町の誰に聞いても、「霧の向こうの君」など知らないという。
「これは……どこから来たの?」
その夜、玲奈は奇妙な夢を見た。
深い霧の中、古い郵便局の前に佇む青年がいた。薄茶色のコートを羽織り、どこか懐かしい眼差しで玲奈を見つめている。
「手紙を届けに来たの?」
青年が微笑む。玲奈は何も言えないまま、夢から覚めた。
次の日、玲奈は霧の中で再び道を見失った。町のはずれに来たつもりだったが、見知らぬ路地に迷い込んでいた。古びた建物が並び、どこかで見たような郵便局が目に入る。
(ここ……夢の中で見た……?)
玲奈は恐る恐る中に入った。そこには、昨日の夢の青年がいた。
「ようやく、来てくれたんだね」
「あなた……誰?」
「僕は、霧の向こうに閉じ込められた者。玲奈、君が来てくれたということは……手紙を受け取ったんだね?」
玲奈は手紙を取り出した。「この手紙……あなたのものなの?」
青年は静かに頷いた。
「この町には、もう一つの姿がある。霧が深い時だけ現れる『もう一つの町』。そこに閉じ込められた人は、誰かが手紙を届けるまで現実には戻れない」
玲奈の心臓が跳ねた。「それじゃあ、あなたは……」
「ずっと、ここにいたんだ。でも、君が僕の手紙を読んでくれたから、ようやく気づいてくれた。お願いだ。僕を……現実の町に連れて帰ってほしい」
玲奈は迷った。これは夢か、それとも現実なのか。しかし、青年の瞳は真実を訴えているように見えた。
「どうすればいいの?」
「霧が晴れる前に、僕の名前を思い出して」
玲奈は必死に考えた。手紙には名前がなかった。しかし、どこかで聞いたことがあるような気がする——。
町の古い記録を調べると、十年前、郵便局で働いていた青年が失踪していたという記事が見つかった。名前は「蒼一(そういち)」。
「蒼一……!」
玲奈がその名を口にした瞬間、霧が一気に晴れた。
目の前には、懐かしい町の風景が広がり、郵便局の前に立っていたはずの青年は——そこにいた。
「ありがとう、玲奈。僕はようやく、戻ることができた」
そう言って、蒼一は微笑んだ。
それ以来、玲奈の郵便バッグに「霧の向こうの手紙」が入ることはなくなった。だが、霧の立ち込める朝、彼女はふと郵便局の前で立ち止まり、空を見上げる。
「蒼一さん、もう迷わずにすんだんだよね?」
風が静かに吹いた。その音が、まるで「ありがとう」と囁くように聞こえた。