#ジャンル:ドラマ
#トーン:温かい
#登場人物:祖父
春の陽射しがやわらかく丘を照らしていた。小鳥のさえずりが風に溶け、野の花が穏やかに揺れる。空は澄み渡り、遠くまで続く青さがどこか懐かしい。
「おじいちゃん、もう少しだからね」
七瀬は祖父の手をしっかり握りながら、ゆっくりと丘を登っていく。祖父・正一は病を患い、もう長くは歩けない。それでもどうしても、もう一度この丘に来たかった。ここは、幼い頃、祖父に連れられて何度も訪れた思い出の場所だった。
ようやく丘の頂上にたどり着くと、祖父はそっと目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
「……やっぱり、いい場所だなあ」
「うん、風が気持ちいい」
七瀬はシートを広げ、祖父を座らせた。そして、手作りのサンドイッチを取り出す。
「おばあちゃんに教わった通りに作ったよ。たまごサンド、食べられる?」
祖父は微笑みながら頷き、一口頬張った。
「うん、おいしい……懐かしい味だ」
二人はしばらく、何を話すでもなく、風や光の流れを感じながら、ただそこに座っていた。七瀬は祖父と過ごした数々の思い出を胸に抱きしめ、言葉にならない想いをかみしめる。
「七瀬」
祖父がふと、ゆっくりと口を開いた。
「大切なものはな、形には残らないんだよ」
「……どういうこと?」
「この景色も、この風も、そしてこうして過ごした時間も。全部、手では掴めない。でも、心の中にちゃんと残るんだ」
七瀬は祖父の顔を見つめた。穏やかな表情の奥に、静かな覚悟が見えた気がした。
「……おじいちゃん、また来ようね」
そう言いかけて、七瀬は言葉を詰まらせた。祖父は優しく微笑むと、ゆっくりとポケットからハンカチを取り出した。少し色褪せ、柔らかくなった白いハンカチ。それは、七瀬が幼い頃から祖父がずっと使っていたものだった。
「これを持っていなさい」
七瀬は驚いたように目を瞬かせながら、それを受け取った。
「でも……これはおじいちゃんの大切なものじゃ……?」
「うん。でも、もうお前にあげたいんだ。これを持っていれば、わしのことを思い出すだろう?」
祖父の言葉に、七瀬の目が潤んだ。
帰り道、七瀬は祖父の手をしっかりと握りしめながら、心に誓った。
これからも、この思い出と一緒に生きていく。形には残らないけれど、ずっと胸の中にあるものを大切にしよう、と。
風がそっと二人の肩を撫でるように吹いた。春の陽は、変わらずに二人を優しく包んでいた。