1
都心の喧騒から少し離れた場所に、小さな公園があった。そこには、古びた木製のベンチがひとつ。朝には出勤前の人々が新聞を広げ、昼には子どもたちが駆け回り、夕方には疲れた会社員が腰を下ろす——そんな、ありふれた公園。
涼太がこのベンチに座るのは、毎朝7時半。コーヒー片手に、わずかな時間だけ静けさを楽しみ、そして仕事へ向かう。それが、彼の日課だった。
そんなある日、ふとベンチの端に小さなメモが置かれているのを見つけた。
「いつもこの時間に座っているんですね。私は夕方にここにいます。」
走り書きのような字。それが、琴音との出会いだった。
2
それから、二人のやりとりが始まった。
涼太は翌朝、コーヒーのカップのフタの裏に「あなたもここが好きなんですね」と書き、それをそっとベンチに置いた。
その夕方、琴音がそのメッセージを見つける。そして次の日の朝、涼太が訪れると、そこには「静かで落ち着く場所だから」と新しいメッセージが残されていた。
顔も知らない相手と、毎日一言ずつ交わす言葉。それは、どこか心地よく、どこかくすぐったい。
3
「ここでお気に入りの飲み物は?」
「ホットコーヒー。あなたは?」
「カフェラテ。でも甘さ控えめが好き。」
「いいですね。今度、試してみます。」
「どんなお仕事を?」
「広告関係です。あなたは?」
「書店員です。本が好きだから。」
「最近読んだ本でおすすめは?」
「『月と六ペンス』。夢を追う生き方って、素敵だと思う。」
「いいですね。読んでみます。」
そんな風に、彼らは少しずつ互いを知っていった。まるで、ゆっくりと手紙を交わすように。
4
ある日、琴音のメモにはこう書かれていた。
「今度の日曜日、ベンチでお会いしませんか?」
その文字を見た瞬間、涼太の心臓が跳ねた。
顔を知らないまま、言葉だけを交わしてきた相手。だが、それでも涼太は、彼女に特別な想いを抱いていることに気づいていた。
「日曜日、ここで。」
そう書いて、ベンチにメモを残す。
そして迎えた日曜日。
だが——琴音は現れなかった。
5
月曜日の朝、ベンチには小さなメモが残されていた。
「ごめんなさい。日曜日、どうしても来られなくて……本当はお会いしたかったのに。」
涼太は、胸の奥が痛むのを感じた。でも、それでも、彼女がこのやりとりを続けたいと思ってくれたことが嬉しかった。
「また、いつかこのベンチでお会いできるといいですね。」
そう書き残し、彼は仕事へ向かった。
6
だが、そのやりとりも長くは続かなかった。
ある日、琴音からのメモにはこう書かれていた。
「実は、来月引っ越すことになりました。遠くの町へ。」
涼太は、その文字を何度も読み返した。今まで顔も知らずにやりとりしてきたのに、なぜだろう。彼女がいなくなることが、こんなにも寂しい。
そして、最後の朝。
涼太は、ベンチの端にそっと一枚のメモを残した。
「あなたがいたこの場所は、これからも変わらず静かで落ち着く場所です。でも、きっと少しだけ寂しくなる。」
「もしまたこの公園に来ることがあったら——このベンチで、会いましょう。」
7
夕方、琴音はそのメモを手に取り、静かに微笑んだ。
そして、そのメモの下に、小さな文字で最後の返事を残した。
「またいつか、このベンチで。」
涼太はそれを読むことはなかったけれど、その日からも、彼は変わらず毎朝、公園のベンチに座り続けた。
静かな場所で、誰かの温もりを感じながら——。