#ジャンル:日常
#トーン:温かい
#登場人物:母
夕暮れの街を、由紀は足早に歩いていた。冷たい風が頬を撫でる。時計を見ると、もう夜の七時を過ぎている。今日も帰りが遅くなってしまった。
「優斗、大丈夫かな……」
五歳の息子・優斗は幼稚園に通っている。最近、「おかえり」と言わなくなったのが気になっていた。以前は玄関の扉を開けると、小さな声で「おかえり!」と駆け寄ってきたのに、ここ数週間、それがなくなった。疲れているのか、拗ねているのか――問いかけても、優斗は「べつに」とそっけなかった。
アパートの前に着いた時、違和感を覚えた。薄暗い玄関先に、小さな影がうずくまっている。
「優斗……?」
慌てて駆け寄ると、彼は膝を抱えてじっと座っていた。顔を上げた優斗の目には、少し涙が浮かんでいる。
「ママ、遅いよ」
その言葉に、由紀の胸が締めつけられる。仕事が忙しく、いつも遅くなる。優斗に寂しい思いをさせていたことは分かっていた。でも、どうすることもできなくて――。
「ごめんね、優斗……どうしてこんなところにいるの?」
優斗は、少し頬をふくらませながら、玄関の明かりを見上げた。
「だって、ここにいたら、ママが帰ってくるの分かるから」
由紀の目から、ふっと涙がこぼれそうになった。玄関の明かりがつくのを待ちながら、寒い外で小さな体を縮めていた息子。その姿を思うと、申し訳なさと愛しさが入り混じった感情が溢れてくる。
「優斗……ごめんね」
ぎゅっと抱きしめる。優斗の体は小さくて、温かかった。母親として、もっと彼の気持ちに寄り添ってあげなければと思った。
「優斗、お願いがあるの」
「なに?」
「ママが帰ってきたら、『おかえり』って言ってほしいな」
優斗は少し考えて、それから小さくうなずいた。
「……じゃあ、ママも『ただいま』って言って」
由紀は微笑んだ。「もちろんだよ」
その日から、由紀と優斗の間に「おかえり」の習慣が戻った。扉を開けると、優斗が小さな声で「おかえり」と言う。由紀は「ただいま」と返す。それだけで、家の中が少しだけ温かく感じられるようになった。
忙しい日々の中でも、二人の心が触れ合う時間。それが、何よりも大切なことだと、由紀は改めて思った。