朝の公園は、まだ眠りの名残を残したように静かだった。青年は黒い柴犬を連れて、ゆっくりと小道を歩く。舗道の脇に並ぶベンチの一つに、彼女はいつも座っていた。髪をまとめ、手には古びた文庫本。ページをめくるたび、ふわりとラベンダーの香りが風に乗って届く。
初めて挨拶を交わしたのは、三月の終わり、まだ肌寒い朝だった。
「おはようございます」
彼が勇気を出して言うと、彼女は驚いたように顔を上げ、少し照れたように微笑んだ。
「おはようございます」
その日から、挨拶は日課になった。言葉はそれ以上でもそれ以下でもなかったが、青年にとっては、それが一日の始まりを告げる大切な合図となった。
日が長くなるにつれ、公園には緑が濃くなり、朝の光が優しく差し込むようになった。犬がベンチのそばで立ち止まり、彼女の足元で尾を振ると、彼女は笑顔で頭を撫でた。青年は少しずつ、彼女が読む本のタイトルを覚え、ラベンダーの香りが彼女の好みだと気づいた。
ある日、空が一気に暗くなった。雲が押し寄せ、突如として雨が降り始める。青年は犬を抱きかかえ、近くの大きな木の下へ駆け込んだ。そこには、彼女がいた。細身のコートが濡れ、髪の先から雫が落ちている。
「びっくりしましたね」
青年が息を整えながら言うと、彼女は小さく頷いた。
「でも、通り雨って、少しだけ好きです。空気が澄んで、世界がリセットされるみたいで」
彼女の声は静かで、雨音と混じって心に残った。木の葉を叩く水音、湿った土の匂い、そしてラベンダーの香りが、時間を止めたように感じさせた。
「この子、なんて名前ですか?」
「コハクです。琥珀色の目をしてるから」
彼女はしゃがみ込み、犬の頭を撫でた。コハクは目を細め、満足そうに尻尾を振る。その仕草に、二人の間に柔らかな笑いが生まれた。
雨は次第に弱まり、雲の切れ間から光が差し込んだ。彼女はバッグに本をしまい、立ち上がる。
「また、明日も来ますか?」
彼は少し戸惑いながらも、笑って頷いた。
「ええ、いつも通りに」
それから、挨拶は会話になり、会話は約束へと変わった。季節が移ろうごとに、二人の距離も少しずつ近づいた。彼女が香水を変える日も、青年はすぐに気づいた。けれど、彼女がラベンダーに戻すと、心のどこかが安心した。
通り雨の朝、あの木の下で始まった物語は、今も静かに続いている。やがて花が咲くように、ゆっくりと、確かに。