味の記憶

ドラマ

#ジャンル:ドラマ
#トーン:温かい
#登場人物:料理人

駅から少し外れた路地裏に、「紅龍園」という中華料理店がある。赤い提灯と色あせた暖簾が目印で、決して派手ではないが、昼時ともなれば常連客で賑わう。ここは、地元に根ざした“味の記憶”が息づく場所だった。

新店長としてこの店にやって来たのは、三十半ばの料理人、佐野誠。腕は確かだが、どこか真面目すぎる男だった。先代が体調を崩して引退するにあたり、昔なじみの縁で後を任されたのだ。

「味は、変えないでくれよ」

そう言って、先代は厨房の奥にある手書きのレシピ帳を佐野に手渡した。紙はところどころ茶色く焼けており、油の染みもついている。けれど、その一行一行に、この店の歴史と客の笑顔が刻まれていた。

佐野はレシピ通りに料理を作りながら、ひとつひとつの皿に思いを込めた。酢豚のあんは甘すぎず、酸味が程よい。チャーハンはパラリと香ばしく、餃子の皮は店で手作りする。派手なアレンジは一切せず、ただ丁寧に、昔ながらの味を守ることに徹した。

やがて、常連客たちがぽつぽつと彼に話しかけるようになった。

「この麻婆豆腐、先代と同じでホッとするよ」 「若いのに、ちゃんと“あの味”わかってるんだな」

中には、亡き妻と毎週通っていたという老人もいた。彼はいつも、五目焼きそばとビール一本を頼んでいた。

「ここでな、妻と口喧嘩して、帰りに仲直りするのが習慣だったんだよ。味が変わってたら、話す気にもなれなかったな」

佐野はただ静かに笑い、丁寧に焼きそばを作り続けた。その味が、かつての記憶と繋がっていることを、彼は誰よりも大切に感じていた。

ある日、厨房に若い女性が現れた。先代の孫娘で、かつて店によく遊びに来ていたという。

「ここに来ると、じいちゃんの声が聞こえる気がするんです」

彼女は少し照れながら、厨房の片隅にあった古い写真立てを見つめていた。そこには、開店当時の紅龍園、笑顔の先代、そして小さな彼女の姿が写っていた。

「この店は、思い出の場所なんですね」

佐野の言葉に、彼女は目を細めて頷いた。

「でも、今の味も好きですよ。優しい味になったと思います」

その一言が、彼にとっては何よりの報酬だった。

佐野は、紅龍園の味を“守る”だけでなく、そこに新しい“記憶”を重ね始めていた。炒める音、立ち昇る香り、客の笑い声。すべてが、この小さな店の財産となっていく。

やがて、紅龍園は少しずつ評判を取り戻し、昔を知らない若い客たちも訪れるようになった。そして彼らもまた、誰かと一緒に来ては、あの優しい味を「懐かしい」と言うようになるのだった。