#ジャンル:ドラマ
#トーン:感動的
#登場人物:シェフ
東京・銀座のフレンチレストランで、圭吾は日々、神経を張り詰めていた。ミシュラン星付きシェフ。予約は半年待ち。妥協のない料理とサービス。それが彼の誇りであり、生き方だった。
そんな彼の元に、ある日一本の電話が入る。母が倒れ、入院したという知らせだった。
実家のある新潟に戻るのは、五年ぶりだった。病院のベッドで眠る母の顔は、思った以上に小さく、しわだらけだった。心配そうに立ち尽くす父と、どこかぎこちない再会。食卓には、手つかずの煮物と冷めた味噌汁が並んでいた。
「母さん、毎日こうやって作ってくれてたんだな……」
ぽつりと父が言った。その言葉が、胸に刺さった。
翌朝、台所に立った圭吾は、ふと思い出したように戸棚を開けた。そこには、古びたノートがあった。表紙に「おふくろの味」と、丸っこい文字で書かれている。
母の手書きレシピ帳だった。
「きんぴらごぼう:ごぼうは細く、にんじんは斜め。甘辛いタレで、しっかり炒めてね」「ハンバーグ:玉ねぎは飴色になるまで。焦らないで。心をこめてこねる」
一つひとつのレシピに添えられた、小さなメモがあたたかかった。
その日から、圭吾は家族のために料理を始めた。プロの技ではなく、母のレシピをなぞるようにして。見慣れた台所で、いつもの味を再現する。初日は塩加減が違った。だが、父は「うまいな」と笑ってくれた。
「誰かのために作る料理って、こういうことだったんだな……」
東京で作っていた料理は、誰かを“驚かせる”ためのものだった。けれど今、目の前で味噌汁をすする家族の姿に、圭吾は初めて「喜ばせたい」と思った。
数日後、退院した母が、ふと台所に顔を出した。
「味、変わってないねぇ。びっくりしたわ」
「レシピ帳、見たから」
「そうかい。あれ、あんたが小さいころ、寝たあとに書いてたんだよ」
その言葉に、圭吾は不意に目頭が熱くなった。
母の味は、ただのレシピではなかった。家族の記憶であり、愛情の積み重ねだったのだ。
帰りの新幹線の中、圭吾はスマホを開き、メモを取った。
「店に“家庭料理の日”を作ろう。母のレシピを出す。それが、僕の料理の原点だから」
風景が流れる車窓に映る自分の顔は、どこか少し、やわらかくなっていた。