深海調査船《セラフィム》の窓の外には、限りない闇が広がっていた。太陽の光が届かぬその場所で、潜水士リサは息を潜めていた。耳をすませば、機械音すら飲み込まれるような静寂――その中で、突如として“それ”は現れた。
──音楽。
あり得ない、とリサは思った。ここは水深8000メートルの深海。通信もままならない閉ざされた世界で、どこからともなく流れてきたのは、旋律だった。しかも、確かに人の声が紡ぐ歌。
「…幻聴?」ヘルメット越しに呟く。
だが、それは幻ではなかった。彼女の耳に届いた音は、調査艇の録音装置にも微かに記録されていた。出どころを探るように、無人潜航艇が進路を変える。やがて、音が最も強く感じられる場所に辿り着いた。
そこは、海底に沈んだ伝説の都市──「ルア=メル」。
千年前、突如として海中に沈んだとされる古代文明の遺構。珊瑚に覆われ、海藻が絡む石造りの建築物が不気味な美しさを醸し出していた。神殿の柱、崩れた劇場、半ば崩壊した塔。すべてが静かに海底で朽ちていた。
その中央、巨大なドーム状の建造物の中で、リサは「彼女」と出会う。
長い銀の髪をたなびかせ、光を受けて青く輝く鱗の尾を持つ存在。人間に似ているが、明らかに異質。彼女は人魚だった。そして、その唇から紡がれるのは、言葉ではなく、魂に直接響くような旋律。
リサは息を呑んだ。歌には意味があった。都市が滅んだ理由、そこにあった愛と悲しみ、争いと和解、そして祈り。人魚の歌はそれらすべてを伝えていた。言葉を超えた、深海の記憶そのもの。
「あなたが、この街の最後の住人……?」
人魚はリサの目を見て微笑んだ。そこには孤独があった。長い時の中、ただひとり、沈んだ都市の記憶を紡ぎ続けてきた存在。彼女は、このルア=メルの“歌い手”だったのだ。
リサが一歩近づいたとき、まるで呼応するように、周囲の海が震えた。音楽が激しさを増す。神殿の壁に刻まれた浮き彫りが輝き始め、街の記憶がリサの脳内に流れ込む。
繁栄、愛、裏切り、終焉──そして沈黙。
リサは涙を浮かべた。それは悲しみではなく、敬意だった。この都市はただ滅びたのではない。歌い、祈り、世界に別れを告げながら、美しく消えたのだ。
やがて歌が終わり、静寂が戻る。人魚はゆっくりと目を閉じた。彼女の姿が淡くなり、まるで水の中に溶けるように消えていく。
「ありがとう……」
リサは呟いた。そこには誰もいない。ただ、深海の静けさが戻っただけだった。だが、リサの心には確かに残っていた。ルア=メルの旋律が、永遠に。