ネオンの隙間で

ドラマ

#ジャンル:ドラマ
#トーン:感動的
#登場人物:バー店員

夜の帳が下りるころ、アユミはネオンに照らされたビルの地下へと降りていく。そこは繁華街の片隅にある小さなバー「ラピス」。カウンター越しに、笑顔を貼りつける仕事を始めてもう五年になる。

息子のリョウを保育園に預け、夜遅くまで働き、早朝に帰宅して朝食を作る。寝顔にそっとキスをして、数時間の仮眠。そんな毎日。

夢は、もう口にしなくなっていた。

「将来? 息子が幸せなら、それでいいです」

そう言う自分に、いつの間にか慣れてしまった。

その夜も、アユミはいつものようにグラスを拭きながら、酔客たちの話を聞いていた。誰もが何かを忘れたくて酒を飲み、笑い、時に泣く。その中に、初老の男がいた。静かにウイスキーを飲み、時折手帳を開いては何かを見つめていた。

「……じゃ、また来るよ」

彼はそう言い残して、ふらりと席を立った。

だが、彼の席には一通の封筒が置き忘れられていた。

「……手紙?」

宛名も差出人もない、ただの白い封筒。だが中には、びっしりと手書きの文字が綴られていた。

『君が笑ってくれた夜のこと、今も忘れられない。』

それは、かつて誰かが誰かを想い、伝えられなかった気持ちを綴った手紙だった。読み進めるうちに、アユミの胸がじわじわと熱くなる。

──あの日、君が夢を語った。

──世界がどうであれ、君の声が、光だった。

読み終えたとき、彼女の目に浮かんだのは、忘れかけていた自分の姿だった。大学時代、舞台女優を目指していた頃。貧乏な劇団で、深夜の稽古に明け暮れていたあの日々。リョウを授かり、夢を断ち切った瞬間。

だが、その断片が、手紙の言葉に呼び戻された。

「誰かが……見てくれてたのかな」

数日後、その男は再び店を訪れた。アユミは手紙を返そうとしたが、彼は穏やかに首を振った。

「もう、渡す相手はいないんだ。だけど……君が読んでくれて、よかった」

そして一言、こう付け加えた。

「君の声は、今も光を持っているよ」

アユミは何も言えず、ただ深く頭を下げた。

その夜、店を出ると、夜明け前の空が白み始めていた。街のネオンがゆっくりと消えていく。その“隙間”に立つ自分を、アユミは初めて静かに見つめた。

夢はもう、舞台の上だけではない。リョウの朝ごはんに小さな旗を立てること。保育園の発表会で歌を口ずさむこと。誰かの一日を、笑顔で始められること。

それが、今の彼女の舞台なのだと。

「おかえり、ママ!」

玄関を開けると、リョウが飛びついてきた。

「ママね、今日ちょっと歌ったんだよ。誰かのために」

「へー、ママって歌えるの?」

「ふふ、ちょっとだけね」

二人の笑い声が、朝の光に包まれていく。

ネオンの隙間で見つけたのは、過去ではなく、未来だった。