#ジャンル:日常
#トーン:温かい
#登場人物:高齢者
老人ホーム「楓の里」の朝は静かに始まる。食堂の窓から差し込む光が、白いテーブルクロスに淡く影を落とす。佐伯さんはその隅に座り、湯気の立つ紅茶に口をつけながら、新聞を広げるのが日課だった。
目的は、クロスワードパズル。
朝食の後、ゆっくりと時間をかけてマスを埋めていく。これが、佐伯さんにとって一日の始まりであり、頭の体操であり、ささやかな楽しみだった。
ところが、ある朝、異変が起きた。
「……ん?」
いつものように新聞を開いた佐伯さんは、目を細めた。クロスワードの欄が、すでに誰かの手によってすべて埋まっていたのだ。
「誰だい、勝手に……」
不満よりも、驚きの方が大きかった。スタッフに尋ねても、知らないという。新聞は共有のもので、誰かが先に解いた可能性はある。
翌朝、佐伯さんは少し早起きして新聞を取りに行った。しかし、その日もすでにクロスワードは完成していた。
「これは、挑戦状かもしれんぞ」
そう呟いて、佐伯さんは少し頬を緩めた。
次の日から、彼は観察を始めた。新聞がどこに置かれているか、誰が食堂に早く来るのか。まるで探偵気取りで、メモを取り、スタッフに聞き込みをした。
「朝、いつも一番早いのは誰かね?」
「そうですね、最近は相川さんがよく早起きしてますよ」
相川さんは新しく入居したばかりの女性。無口で読書好き、食堂でもあまり話さず、誰とも親しくしていなかった。
佐伯さんは思い切って話しかけてみた。
「クロスワード、お好きですか?」
相川さんは一瞬驚いたように目を丸くしたが、すぐに笑って頷いた。
「ええ……昔から。頭が錆びないようにって、夫とよくやってましたの」
その言葉に、佐伯さんは納得した。そしてその晩、スタッフに頼んで、食堂にもう一部新聞を用意してもらうことにした。
次の朝、佐伯さんは自分の分の新聞を手にし、紅茶をすすりながらクロスワードに取りかかった。ふと視線を上げると、少し離れた席で相川さんが同じように新聞を広げていた。
それを見て、佐伯さんは静かに笑った。
「ま、仲間が増えるのも悪くないか」
次の日から、食堂では二つの新聞が並んで置かれるようになった。そして、やがて相川さんの方から声をかけてきた。
「ねえ、佐伯さん。ここの“13タテ”って、分かります?」
「ああ、それは“ハルウララ”じゃないかな。競走馬の名前だ」
それがきっかけだった。
ふたりは次第に言葉を交わすようになり、やがて朝のクロスワードは二人で一緒に解く時間へと変わっていった。
紅茶を注ぎ合い、笑い合いながら、彼らは一日を始める。
ある日、スタッフの一人が呟いた。
「佐伯さん、ずいぶん明るくなりましたね。まるで、クロスワードが恋のパズルだったみたい」
それを聞いて、佐伯さんは少し照れたように笑いながら、言った。
「答えは簡単さ。“出会い”ってやつだよ」
そう言って、マス目の中に「ユウジン(友人)」と書き込んだ。
ネタも答えも、もう驚くほど鮮やかに浮かぶ。
紅茶とクロスワード、そして新しいつながり。
それが、「楓の里」に咲いた、小さな春だった。