記憶奉納の社

SF

#ジャンル:SF
#トーン:不思議
#登場人物:隊員

それは、本来存在しないはずの座標だった。

時空警備隊の隊員アキラは、時空の歪みを検知して山奥へ派遣されたはずだったが、目的地の森で突然センサーが狂い、視界が白く染まった。気づくと、彼は深い霧に包まれた山道を歩いていた。

そして、霧の向こうに現れたのは、苔むした石段と、朱塗りの鳥居。その奥には小さな神社が佇んでいた。

「こんな場所、地図に……」

声を漏らす間もなく、鳥居をくぐった瞬間、時間が凍るような静寂がアキラを包み込んだ。

境内の中央に、白い装束の巫女が立っていた。年齢は不明。黒髪を垂らし、目を伏せているその姿には、不思議な威厳があった。

「あなた、時の外から来ましたね」

アキラは警戒しながらも、警備隊の身分を名乗った。

「ここは“記憶奉納の社”。歪んだ時空の傷口に、記憶を捧げて癒す場所です」

巫女はそう語った。神社は、この世界に開いた“時の裂け目”の一つ。放っておけば、周囲の因果律を巻き込み、過去と未来を壊していく。

「あなたが今ここにいるのも、歪みに引き寄せられたからです」

アキラは任務を思い出した。時空の安定化こそ、彼の役目だ。

「記憶を捧げる……というのは?」

「あなたの大切な記憶一つと引き換えに、時空の裂け目を閉じることができます。ただし、一度捧げた記憶は、二度と戻りません」

アキラは息を呑んだ。失う記憶は、彼自身が選ぶ。愛した人との思い出、訓練の日々、初めて命を救った日の記憶──そのどれかを手放さなければならない。

「それでも、世界を救う価値があると、あなたは思いますか?」

巫女の問いかけは、静かで、深かった。

アキラは黙って目を閉じた。思い出が走馬灯のように流れていく。笑顔、涙、傷、誓い。

そして、ひとつの記憶にたどり着く。

少年時代。時空事故で家族を失い、ひとりだけ助かった日のこと。何もできず、泣き叫んだ幼い自分。そこから、彼は時空警備隊を目指したのだった。

「それを……失っても、俺は“俺”でいられるのか」

「あなたが選ぶ限り、あなたはあなたです。記憶は、形を変えて残ります」

巫女は手を差し出した。

アキラは、震える手でその指に触れた。

次の瞬間、空気が軋み、風が巻き起こった。社の奥の鏡が淡く光り、裂け目がゆっくりと閉じていく。記憶が剥がれる感覚。胸の奥にあった何かが、静かに消えていった。

気づけば、鳥居の前に立っていた。

霧は晴れ、空は澄み渡っていた。手元の端末も正常に戻っている。

「……なんの任務、だったっけ?」

ふとそう思ったが、深くは考えなかった。ただ、胸の中にあたたかな風が吹いていた。

その後、アキラは変わった。

過去を振り返ることは少なくなったが、誰かの未来を守ることに迷いがなくなった。記憶が消えても、想いの在処は失われなかった。

誰も知らない、山奥の神社。

時の狭間に、記憶を奉納した青年の足跡だけが、静かに刻まれていた。