夏の夜の空気は、どこか懐かしい匂いがする。
浴衣の裾を気にしながら、ユイは祭りの屋台通りを歩いていた。提灯の光、焼きそばの匂い、人のざわめき。それらが入り混じって、心を落ち着かせるどころか、ますます高鳴らせた。
高校最後の夏祭り。ユイは心の中で、今日こそ、と何度も繰り返していた。
金魚すくいの屋台の前に、彼はいた。
黒い浴衣に無造作な髪。ポイを片手に、水面をじっと見つめるその横顔に、ユイの胸がきゅっと鳴る。
「タカト……」
声をかけると、彼は少し驚いたように振り返り、すぐに笑った。
「ユイ、来たんだ」
「そっちこそ。まだ金魚すくいやってるなんて、子どもみたい」
「なにそれ、昔は一緒にやってたくせに」
幼なじみの二人。小学生の頃、毎年のようにこの金魚すくいで競い合っていた。ユイはいつも、彼に負けていた。悔しくて泣いた夏もあった。でも、それすら今では甘い記憶。
「やってみる?」
タカトがもうひとつのポイを手渡してきた。ユイは黙ってそれを受け取り、水に目を落とす。
赤、白、黒、尾を揺らす金魚たち。
「ねえ、覚えてる? 小三のとき、わたしが一匹もすくえなくて、あんたの金魚こっそり袋に入れてくれたの」
「覚えてるさ。あのとき、ユイめっちゃ怒ってたよな。“同情なんかいらない!”って」
ユイは苦笑する。
「でも、あれ嬉しかったよ。ずっと忘れてなかったもん」
ポイが水面をすべり、小さな金魚がふわりと乗った。
「すごいじゃん!」
「……うん。今日は、うまくいく気がするんだ」
ユイは金魚を袋に移しながら、そっと視線をあげる。花火の打ち上げが始まるまで、あと少し。胸の奥で、時間がざらつくように過ぎていく。
「タカト、志望校、東京なんでしょ?」
「うん、ユイもでしょ? そっちは文学部だっけ」
「……そう。でも、もしかしたら、受けないかも」
「え、なんで?」
答えられなかった。どうしても、今ここで言いたいことがあるのに、言葉は喉の奥で立ち止まる。
そのとき、空が一瞬明るくなった。
花火の第一発。どん、と音が響き、人々が空を見上げる。
ユイは、まっすぐタカトを見た。
「わたし、好きだったよ。ずっと」
タカトが驚いたようにこちらを向いた。だが、二発目の花火が上がり、音がそれを包み込む。
ユイの心臓は、花火よりもうるさかった。
「ごめん、聞こえなかった。なんて言った?」
彼の声に、ユイはふっと笑った。
「……内緒」
「なんだよそれ」
「ヒントは、金魚の数と、打ち上げ花火のタイミング」
「難しすぎ」
「じゃあ、わたしがヒントを見せてあげる。来年の夏も、ここに来て」
タカトは、しばらくユイを見つめて、それから少し照れたように笑った。
「……うん。来年も、ここで。絶対な」
その夜、二人の間には言葉にならない約束がひとつ、金魚袋の中で揺れていた。
それは、片想いかもしれない。でも、確かに、動き出した想いだった。