リオがその庭に迷い込んだのは、真夜中だった。
町外れの森。月の光すら届かないような暗い木々の奥で、リオは道を見失っていた。親に怒られた帰り道、家に帰りたくなくて、ただ無心で歩き続けた結果だった。
ふと、風が変わった。
ふわり、と甘い花の香りが鼻をかすめる。目の前に、ありえない光景が広がっていた。
巨大な柳の下、そこだけが銀色の光に満ちていた。花が咲き乱れ、細い小川がさらさらと流れ、空気が青白くきらめいている。月明かりが作った秘密の庭。
そして、その中にいたのは――小さな光の精たちだった。
リオは、目を疑った。
人の手ほどの大きさの、透明な羽根を持つ存在たちが、静かに踊っていた。光る花びらを拾い、月のリズムに合わせて舞い、笑いさえも風の音に溶かしていた。
「……夢、かな」
リオが呟くと、その声に気づいた妖精たちが一斉に振り向いた。
その中のひとり、月光を纏ったような銀髪の妖精が、ふわりと近づいてきた。
「君、迷子?」
透き通る声に、リオは小さく頷いた。
「ここは、月影の庭。人間は入れないはずなんだけど……」
妖精は首をかしげ、そして優しく笑った。
「まあ、いいか。少しくらいなら、一緒に遊ぼう」
そうしてリオは、妖精たちと夜を過ごした。
光る木の実で遊び、風の音楽に合わせて走り回り、眠るような花の匂いに包まれて、久しぶりに笑った。リオはひとりぼっちだった。学校でも家でも、どこにも居場所がなかった。けれどこの庭では、誰も彼を責めなかった。
妖精たちは言った。
「ここでは、時間も悲しみもないよ」
「君が笑えば、それでいいんだよ」
リオは、この場所が好きだと思った。
だが、夜も深まったころ、月光の柱の下で、銀髪の妖精が寂しそうに言った。
「ひとつ、言わなきゃいけない掟があるんだ」
リオは不安な気持ちで聞いた。
「この庭に入った人間は、本当は……帰れないんだ」
胸が、ぎゅっと締めつけられた。
「でも、君がここにいるなら、ずっと笑っていられる。悲しみも、寂しさも、痛みも、何もない」
妖精たちはリオを囲み、囁いた。
「ここにいて」
「一緒に眠ろう」
「ずっと、夢の中で」
リオは迷った。
ここにいれば、もう誰にも傷つけられない。誰にも拒まれない。けれど――心のどこかで、リオは思い出していた。
家の電気。母の小さなため息。机の上に置かれた、開きっぱなしの絵本。怒ったり、泣いたり、笑ったり。たとえ不格好でも、それは確かに自分の生きていた“現実”だった。
「ありがとう。でも、僕、帰る」
リオは言った。
妖精たちは静かに、悲しそうに、それでも優しく微笑んだ。
「そっか。君は、強いね」
銀髪の妖精がそっと手を伸ばした。その掌には、小さな月の形をした種子が乗っていた。
「これは“帰る種”。これを握れば、目覚めることができるよ」
リオはそれを受け取り、ぎゅっと握りしめた。
世界がふっと揺れた。
目を開けると、そこは森の外れだった。夜が明け始め、東の空がうっすらと明るい。
ポケットには、あの月の種がひとつだけ残っていた。
家に帰る道すがら、リオは思った。
夢は消えたわけじゃない。どこかで、あの庭は今も静かに月明かりの中に在る。自分が疲れたとき、逃げたくなったとき、思い出せばいい。
あの光と、あの優しい声たちを。
リオは歩き出した。朝焼けに向かって、ゆっくりと。
背中にはまだ、月影の庭のぬくもりが、そっと寄り添っていた。