その日、美月はすっかり打ちのめされていた。
中学校の中間試験、手応えは最悪。特に数学の答案用紙は、まるで知らない言語が並んでいるかのようだった。足取り重く、いつもの帰り道を外れ、なんとなく歩いていると、ふと甘い香りに足が止まった。
目の前には、古びた喫茶店があった。
小さな木の看板に、手書きの文字。
――三月堂。手作りカステラと珈琲の店。
気づけば、美月はドアを押していた。
チリン、とベルが鳴る。こぢんまりとした店内には、古い本棚とレコードプレイヤー、小さなテーブルが数卓。カウンターの向こうには、白髪混じりの店主が静かに立っていた。
「いらっしゃい」
柔らかな声だった。
緊張しながら席に着くと、店主はメニューを差し出す代わりに、にっこりと笑った。
「うちのおすすめは、カステラだよ。お腹すいてるだろう?」
美月は、こくりと頷いた。
やがて運ばれてきたのは、ふわふわに焼き上がったカステラと、湯気の立つミルクティー。カステラから漂う甘い香りに、自然と頬がゆるむ。
一口食べた瞬間、心がじんわりと温まった。
ふわふわの生地に、やさしい甘さ。まるで、どこか遠い日の安心を食べているみたいだった。
「うまくいかなかったんだろう?」
店主の言葉に、美月は顔を上げた。
「……どうしてわかったんですか?」
「三月堂には、そういう顔をして入ってくる子が多いんだよ」
店主はにこにこしながら、カウンターの向こうでコーヒー豆を挽き始めた。
「昔からね、三時には小さな奇跡が起きるって、うちでは言ってるんだ」
「奇跡……?」
「うん。大きなことじゃなくていい。たとえば、ふと誰かが笑ったとか、雨が上がったとか。そんな、小さな奇跡」
美月は黙ってカステラを食べ続けた。
窓の外では、さっきまで灰色だった空に、うっすらと光が差してきていた。時計を見ると、ちょうど三時。
「……奇跡、ですか」
美月は、そっとカバンから試験問題を取り出した。そこには真っ赤なバツ印。でも、店内の空気に包まれていると、それすらほんの少しだけ、許せるような気がした。
「ひと休みしたら、またがんばれるよ」
店主はカウンター越しに、ミルクティーのおかわりを注いでくれた。
それは、何でもないようでいて、美月にとっては確かに“小さな奇跡”だった。
店を出る頃、心はすっかり軽くなっていた。
「また、おいで。三時の奇跡は、一度きりじゃないからね」
「……はい!」
美月は、思わず声を弾ませた。
外に出ると、空はすっかり青くなっていた。カバンの中には、まだバツ印だらけの答案がある。だけど、それがすべてじゃないと、今なら思える。
美月は空を見上げ、深呼吸をした。
次の試験も、うまくいかないかもしれない。でも、大丈夫。
三月堂のカステラの味と、店主のさりげない優しさを、胸の奥にしまったから。
小さな奇跡は、きっと、これからもどこかで起き続ける。
三時の鐘が鳴るたびに。