【短編小説】湖の底の図書館

ファンタジー

ナナが祖母の住む村にやって来たのは、夏休みが始まったばかりの頃だった。

両親の仕事の都合で毎年預けられるこの場所は、山と田んぼと静かな時間しかない退屈な田舎に思えていた。だが、今年は少し違っていた。

「ナナや、夜にあの湖には近づくでないよ。『湖の底の図書館』に引き込まれるって、昔から言うんだからね」

夕飯の後、何気なく祖母が口にしたその言葉に、ナナの耳はぴくりと反応した。

「湖の底の図書館?」

「そう。昔、この村には大きな図書館があったそうじゃ。だけど、大水で村が沈んだときに、図書館も一緒に湖の底へ。今も夜になると、水の中にその建物が現れるんだとさ」

ナナは目を輝かせた。

「ねえ、行ってみてもいい?」

「ばかなこと言うんじゃないよ。忘れられた本が、人の記憶を奪うんだって話もあるんだよ」

けれど、その夜。ナナはこっそり懐中電灯を持って家を出た。

月明かりの下、湖は静かに揺れていた。風もなく、木々も囁かない。ただ、湖面がまるで鏡のようにきらめいていた。

そして、目を凝らしたそのとき。

水の中に、うっすらと建物の輪郭が浮かんでいるのが見えた。

四角い塔、並ぶ柱、大きな扉――確かにそれは“図書館”だった。

その瞬間、湖面に光が走り、水面からひとりの少女のような姿が現れた。透き通るような青い髪、きらめく瞳。ナナは後ずさりしそうになる。

「こわがらないで。わたしは湖の精。あなたに、ひとつの物語を託したい」

「……どうして、わたしに?」

「あなたは今、物語を失いかけている。心の中の“知りたい”“伝えたい”という灯を。だから、湖が呼んだの」

そう言うと、精は手を伸ばした。触れた瞬間、ナナの足元から水が広がり、世界が反転するように景色が変わった。

次に目を開けると、彼女は湖底の図書館の中にいた。

天井まで届く本棚。ランプのような光がふわりふわりと漂い、背表紙がひとりでに開く。そこには、読まれることのなかった、忘れられた物語が眠っていた。

ナナはそっと手を伸ばし、一冊の本を開いた。

それは、昔この村に住んでいた少女が書いた、空想の物語だった。村の山、田んぼ、祭り、初恋、別れ……どれも祖母が話してくれたことと重なっていた。

ページの最後に、こう記されていた。

「いつか、この物語を読んでくれる誰かへ。私の記憶を、未来につないでください」

ナナは、ふいに涙があふれた。

彼女は思い出していた。幼い頃、絵本を読むのが大好きだったこと。図書館に通い、ノートに物語を書き写していたこと。けれど、いつしか勉強や進路の不安の中で、それらは“意味のないこと”だと思うようになっていた。

精霊が、そっと言った。

「その本を持ち帰れば、記憶は一部だけ消える。けれど、代わりに“物語を書く心”が戻る。あなたがどうするかは、あなたが決めて」

ナナは迷わず、本を胸に抱いた。

――気づけば、湖のほとりに立っていた。手には、一冊の乾いた本が握られていた。

それから、ナナは村の図書館に通いはじめた。ノートを開き、自分の言葉で、湖で見たもの、読んだ物語、失われた風景を少しずつ綴っていった。

夏休みの終わり、祖母に尋ねられた。

「ナナや、今年は退屈しなかったかい?」

ナナは、にっこり笑った。

「ううん。いちばん大事な“物語”に出会えたよ」

湖は静かに光り、夜になると、誰かの物語がまたページをめくっているかもしれなかった。

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