【短編小説】手紙には書かれていない

ミステリー

春の引っ越しを目前に控えたある日、菜月の家に一通の古びた手紙が届いた。

封筒は黄ばんでおり、消印はかすれて読めない。だが、差出人欄には何も書かれておらず、宛先だけがはっきりと——「朝倉菜月様」と記されていた。

「……なんで今さら?」

奇妙に思いながらも開封すると、中には細かな字で書かれた便箋が一枚入っていた。

『あなたのお母さんの死は事故ではありません。真相を知りたければ、あの場所へ。——桜坂の旧郵便局裏、3月15日、午後3時』

手が震えた。

菜月の母は、20年前の春に交通事故で亡くなったと聞かされていた。当時まだ2歳だった彼女には、その記憶はない。ただ、母の写真と、毎年咲く桜の香りだけが、母を思い出す手がかりだった。

誰がこんな手紙を? なぜ今?

だが、引っ越す前にこの町でやり残したことがあるような気がして、菜月はその日、指定された場所へと足を運んだ。

桜坂の旧郵便局はすでに廃墟と化していたが、その裏手には、小さな空き地があった。

午後3時。風が吹き抜け、風花のような桜の花びらが舞った。

誰もいない。菜月は辺りを見回した。

すると、足元の地面に、何かが埋められたような跡を見つけた。

素手で土を掘ると、小さな缶のようなものが現れた。中には、さらに数通の手紙が重ねられていた。

そのうちの一通を開くと、見覚えのある子どもじみた字が踊っていた。

『菜月ちゃん、元気ですか? 僕は元気です。今日は、風が強くて、君の家の桜の花びらがたくさん飛んできたよ』

幼い頃、菜月は引っ越す前の町で、ある男の子と“文通ごっこ”をしていたことを思い出した。母の手を借りて書いた、たどたどしい文字。返事はいつも郵便ポストではなく、家の裏の桜の木の根元に埋めた小箱に届いていた。

あのときの——彼?

手紙を読み進めるうちに、ある一文にたどり着いた。

『おばさんが車の前に出て行ったのを見た。あれは、助けるためだったんだって、後でお父さんが言ってた』

衝撃が走った。

事故ではなかった? 母は、誰かをかばって……?

手紙はすべて、幼い男の子が誰かに宛てた、純粋な気持ちの記録だった。そこには名前は記されていなかったが、読み進めるうちに、確信に変わった。

——これは、あの頃の“ユウタくん”だ。

母の死の真相を知らずにいた菜月に、彼なりの方法で伝えようとした、時間を越えたメッセージ。

風に乗って、最後の手紙が滑り落ちた。

菜月が拾い上げようとしたとき、封筒の裏に何かが書かれているのに気づいた。

小さな、にじんだ文字。

『本当に伝えたかったことは、手紙には書けなかったんだ。でも、君が見つけてくれて、うれしい』

涙が滲んだ。

菜月は、そっと封筒を胸に抱きしめた。

手紙には書かれていなかったけれど、たしかに伝わった。

母の想い、ユウタの記憶、そして自分がこの町にいたという証。

数日後、引っ越しのトラックが町を出るとき、菜月はもう一度桜坂を振り返った。

あの木の下に、彼女の“物語のはじまり”が眠っている。

風が吹き、花びらが舞った。

その瞬間、まるで誰かが「行ってらっしゃい」と背中を押してくれた気がした。

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