春休みの初日、ユイは祖母の家の縁側に座っていた。
母に「たまには空気の違う場所でのんびりしてきなさい」と言われて、渋々やってきた田舎町。スマホの電波も不安定で、友達と連絡を取り合うのもままならない。最初の一日は、ただ時計の針を眺めていた。
だが、祖母の家には、ひとつだけ特別な場所があった。
縁側だ。
南向きのその場所は、春の日差しが心地よく差し込み、午後になると決まって一匹の猫がやってきて、ユイの隣で丸くなる。
名前はチロという。祖母がご近所からもらい受けた元ノラで、気まぐれで人懐っこく、ユイが話しかけると、たまに「にゃあ」と返事をする。
「チロ、今日は風があったかいね」
そう言いながら、ユイは膝に置いたスケッチブックに手を伸ばす。もともと絵を描くのが好きだったが、最近は勉強や塾でそんな時間も忘れかけていた。
この家に来てから、ユイは再び絵を描きはじめた。といっても、風景画や猫の姿だけでなく、「匂い」や「音」も、線や色で表現していく。
たとえば、「風の匂い」は薄い水色に。遠くの子どもたちの笑い声は、小さな黄色の丸で。「縁側で寝るチロのぬくもり」は、オレンジの渦巻き。
何も起きないように見える日々が、紙の上では少しずつ色づいていった。
ある日、祖母が持ってきた緑茶を渡しながら、ぽつりと言った。
「ユイちゃんの絵、優しいね。見てると心がほぐれるよ」
「え、そう?」
ユイは照れ隠しに笑った。
「ここにいるとね、毎日違う風が吹くのがわかるの。桜の匂い、土の匂い、夜になると星の匂いもするんだよ」
祖母は、そう言って目を細めた。
縁側での生活は、ゆっくりと流れていった。
ある夜、外で小さな雨音がした。ユイはふと目を覚まし、縁側に出た。雨の匂いが濡れた庭に立ち込め、いつもとは違う夜の静けさがあった。
チロがそっと現れ、ユイの足元に座った。
「ねえチロ。毎日何も起きないのに、なんでこんなに心が落ち着くんだろう」
チロは何も言わず、ただ喉を鳴らしていた。
春休みの最終日、ユイはスケッチブックの最後のページを開いた。
「今日の風は、すこし寂しいね」
そうつぶやきながら、ピンクとグレーの混ざった線を引いた。祖母がそっと背後に立った。
「今度は、夏においで。またチロと待ってるから」
ユイは頷いた。
帰りの電車の中、スケッチブックをめくりながら、ユイは思った。
何も起きない日々の中にも、小さな奇跡はちゃんとある。
風の匂い。猫のぬくもり。おばあちゃんの緑茶の味。
それらは、心の中にやさしく灯り続けている。