放課後の美術室には、絵具の匂いと静けさが満ちていた。
高校二年の遥香は、今、美術部の卒業制作に取り組んでいた。題材は、学校の裏手に残る旧校舎。今では使われておらず、生徒の出入りも禁止されているが、取り壊しが決まったと聞いて、彼女は“最後の記録”としてスケッチを描くことにした。
ある日、旧校舎の全景を描くために裏手の斜面からスケッチしていたとき、不意に風にあおられてノートが飛ばされた。
追いかけた拍子に、彼女は旧校舎の裏口が半開きになっているのを見つけた。
「……開いてる?」
好奇心に勝てず、遥香はそっと中に入った。木の床は軋み、埃が舞い上がる。誰もいないはずの空間は、時間だけが取り残されたようにひっそりと静まり返っていた。
そして、階段の上、屋根裏に続くハシゴを見つけた。
躊躇しながらも登っていくと、古びたキャンバスが何枚も積まれていた。その中で、ひときわ目を引く絵があった。
一枚のスケッチ。描かれているのは、この旧校舎だった。
だが、異様なのは、その絵の描き込みだった。
遠近法に狂いはなく、影や光の入り方も正確なのに、どこか“不自然”な違和感があった。まるで、見えない“何か”が絵の中に隠されているかのように。
裏面には、こう書かれていた。
「199X年3月。風間薫 最後のスケッチ」
風間薫——遥香は、その名前に覚えがあった。
美術室の古い名簿の中に、その名は確かにあった。そして、彼は「20年前に突然姿を消した生徒」だった。
「まさか……これが、最後の……?」
彼女はスケッチを美術室に持ち帰り、詳細に観察を始めた。絵を拡大コピーし、線のひとつひとつを追っていくと、ある法則に気づいた。
壁に刻まれたヒビ。床に落ちた影。並ぶ窓枠のパターン。すべてが、モールス信号のような“暗号”になっていた。
時間をかけて解析すると、浮かび上がった文字列があった。
《図書室の地下》
放課後、遥香は心臓を高鳴らせながら図書室へ向かった。地下といっても、学校にそんな場所があると聞いたことはない。
だが、棚と棚の隙間にある壁に、不自然な段差があることに気づいた。
押すと、小さな扉が音もなく開いた。
中は、物置のような空間だった。埃にまみれた中に、古い木箱がひとつ置かれていた。開けると、そこにはノートと、写真が一枚。
写真には、風間薫と思われる少年と、教師らしき男性が映っていた。ノートには、薫の苦悩が綴られていた。
――理不尽な指導。作品の破棄。自分の絵を「病気」とまで言われた絶望。
彼は、学校で追い詰められていたのだ。そして、その“告発”を最後の絵に込めた。
事件としては処理されなかったが、彼の失踪は、明らかに学校の隠された闇とつながっていた。
遥香はすべての資料を、美術教師に報告した。
教師は驚きながらも、その絵と記録を校長に提出し、やがて風間薫の“名誉回復”が校内で正式に表明された。
そして、遥香は自分の卒業制作の題材を変えた。
《最後のスケッチ》と題された作品には、旧校舎の風景と共に、一人の少年が窓辺で絵を描く姿が描かれていた。
キャンバスの隅には、小さな文字があった。
——君の声は、ちゃんと届いたよ。