風が止み、雪が舞い落ちる湖面は、まるで静寂そのものだった。
冬の朝、町外れの凍った湖で、ひとりの少年が湖底に何かを見つけた。それは、半透明の氷の中に閉じ込められた、片方だけの古いスケート靴だった。
ニュースは瞬く間に広がった。
「もしかして、あれじゃない?」
町の人々はざわめいた。
二十五年前、この湖でひとりの少女が行方不明になった。吹雪の夜、練習のためにスケートリンクへ向かったまま、彼女は戻らなかった。
「氷上の失踪事件」として語り継がれてきたその出来事は、今や都市伝説のようになっていた。
高校三年の菜々は、そのニュースを見た瞬間に心を奪われた。
将来は記者になりたいと夢見る彼女にとって、これは初めての“自分の物語”だった。
「調べてみよう」
町の図書館、古い新聞、当時の校内報。
少しずつ少女の輪郭が浮かび上がってきた。
名前は川澄ユリ。フィギュアスケートの将来有望な選手だった。小さな大会で何度も優勝し、町の誇りとして注目されていた。
だが、彼女の家は貧しく、練習も満足にできなかったという記録が残っていた。
ある日、菜々はユリの当時の親友だったという老婦人を訪ねた。
「ユリちゃんはね、本当に頑張り屋さんだったの。でも……家族の事情で、リンクに通えなくなってしまってね」
「じゃあ、なぜあの夜……」
「最後の大会に出たくて。スポンサーの推薦もあって、もう一度だけ夢を叶えるつもりだったの。でも、あの夜は吹雪で、誰も止められなかった」
「湖に行ったんですか?」
「ええ。誰も使っていなかった湖の氷の上で、彼女は一人で練習してたんだと思うの。……あの子、氷の上だけが自分を自由にしてくれるって、言ってたから」
話を聞きながら、菜々は思わず涙をこぼした。
その夜、夢を信じて氷の上に立った少女の姿が、脳裏に浮かんだ。
——冷たい風を受けながら、それでも回転しようとしていたユリの姿が。
数日後、町の有志によってスケート靴は引き上げられた。
一緒に見つかったのは、小さなメモだった。中は滲んでいたが、最後の一文だけが読み取れた。
《私は、もう一度、空を跳ぶ》
菜々は、その言葉を記事にした。
「氷上の記憶」と題したその小さなレポートは、町の新聞の片隅に掲載された。
大きな反響があったわけではない。
けれど、次の冬。
町のスケートリンクで、ユリの名を冠した小さな大会が開かれることになった。
開会式で、菜々は紹介された。
「記憶の中の願いを、未来につないだ少女として」
リンクの中心、誰もいない氷の上。
菜々は静かに呟いた。
「ユリさん、あなたの夢、少しだけど届いたよ」
雪がまた、静かに舞い降りていた。
氷の下に眠っていた記憶が、ようやく春を迎えようとしていた。