【短編小説】星降るベランダで

ドラマ

遥がベランダで星を眺めるようになったのは、小説家を目指すようになってからだった。

夜の空は、物語を考えるための静かなページだった。仕事から帰ってきて、インスタントのコーヒーを片手に、ノートを膝にのせて星を見上げる。それが、彼女の小さな習慣だった。

ある春の夜。隣の部屋のベランダに誰かが出ている気配がした。

視線を向けると、同年代くらいの青年が双眼鏡を構えて空を見上げていた。肩越しに見えた星図帳には、鉛筆の書き込みがびっしりだった。

「……星、好きなんですか?」

不意に声をかけた遥に、青年は少し驚いたように笑った。

「ええ。天文部だったんです、高校まで。あれが木星で、こっちが……」

彼はそう言って、星を指差しながら簡単な星座の話をしてくれた。遥は小さく笑い、夜空を見上げた。

名前は蒼。大学を卒業して、しばらくこの部屋に仮住まいするのだという。

その日から、ふたりは夜ごとベランダ越しに星談義を交わすようになった。

「小説、書いてるんですか?」

「はい。まだ新人賞に出してるだけで、全然ですけど……星を見てると、物語が浮かぶ気がして」

「いいですね。夢があるって」

蒼はそう言って微笑んだ。

ふたりの間には手すりがあり、距離があり、でもどこか親密な空気が漂っていた。

季節が移ろうにつれ、夜空も少しずつ変わっていった。ある夜、蒼がポツリと告げた。

「……来月、引っ越すことになりました。仕事の都合で」

遥は手にしていたマグカップを少しだけ握り直した。

「そうですか」

「最後の夜、流星群が来るらしいんです。晴れたら、一緒に見ませんか?」

遥は頷いた。

そして、引っ越し前夜。

空は雲ひとつなく澄んでいて、星々が今にもこぼれ落ちそうだった。

「小説、書き続けてくださいね」

「はい。あなたは……星、見続けますか?」

蒼は静かにうなずいた。

「きっと。どこにいても、空はつながってるから」

そのとき、ひとすじの流れ星が夜空を横切った。

それは、言葉にしきれない想いのようで、ふたりはただ黙って見上げていた。

やがて蒼が、ポケットから小さなメモ帳を差し出した。

「これ、好きな星座を書き留めてたノートです。もう一冊、新しいのを始めるから、よかったら」

遥はそれを受け取り、しばらく指でなぞった。

「ありがとう。きっと、いつか……この夜を書きます」

「そのときは、教えてくださいね」

ふたりの視線が重なった。けれど、手は伸ばされなかった。別れの夜にふさわしい、静かな距離。

翌朝、蒼の部屋は空っぽになっていた。

ベランダの向こうは、ただの壁に戻っていた。

それからしばらくして、遥の短編小説が新人賞を受賞した。

タイトルは『星降るベランダで』。

物語の中では、流れ星の下で交わされたふたりの会話が、夜空のようにやさしく描かれていた。

遥は今も、ベランダで星を眺める。

どこかの空の下、蒼もきっと、同じ星を見上げている。そう信じられる限り、物語は続いていく。

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