セミの声が空を震わせるように響いていた。
高校三年の夏、圭は野球部を引退したばかりだった。甲子園出場は果たせなかったけれど、ベンチで仲間と見上げたあの空は、たしかに忘れられない眩しさを持っていた。
だが、引退してからというもの、日々は少しだけ色褪せていた。進路も未定、勉強のやる気も起きないまま、夏休みを無為に過ごしていた。
ある日の昼下がり、最寄りのスーパーで氷菓子を買って出たところで、不意に声をかけられた。
「圭くん?」
振り向くと、そこには千紗がいた。
同じクラスだったが、あまり話したことはなかった。けれど、彼女の瞳の奥にどこか懐かしさを感じて、圭は少し驚いた。
「久しぶり。……って、最近も学校で会ってるけど」
千紗は笑った。そして唐突に言った。
「ねえ、あの空き地、まだあると思う?」
「空き地?」
「ほら、小学生の頃さ、段ボールで秘密基地作ったあそこ」
思い出した。
駅裏の空き地、今は使われていない駐車場の奥。草が生い茂るその一角に、近所の子どもたちが集まり、空き箱や木材で基地を作って遊んだ日々。
「懐かしいな……たしか、あの夏以来、行ってない」
「行ってみない? 今、時間ある?」
流れるような誘いに、圭は思わず頷いていた。
二人で歩いた真夏の道。アスファルトの照り返しがじりじりと肌を焦がす中、蝉の声が途切れることなく続いていた。
そして辿り着いた空き地は、思ったよりもそのままだった。
雑草は伸び、段ボールはなくなっていたけれど、形は記憶と変わらなかった。
「ここで、星を見たんだよ。寝転んで、アイス食べながら」
「覚えてる。あと、将来の夢を言い合ったっけ」
圭がそう言うと、千紗は少し黙ってから口を開いた。
「私、“宇宙飛行士になりたい”って言ってた。覚えてる?」
「うん、笑ったら怒ってたよな。『バカにしないで!』って」
千紗は苦笑した。
「今はもう、違う夢だけどね。でも、なんだかんだでその頃の方が、ちゃんと夢に向かってた気がする」
圭も、小さくうなずいた。
「俺もそうだよ。野球しかなかったけど、終わってから何も見えてなくて」
風が吹いた。二人の間に、暑さとは別の沈黙が流れる。
「ねえ、圭くん」
「ん?」
「夢ってさ、途中で変わってもいいよね? でも、捨てなきゃいけないものじゃないよね?」
圭は空を仰いだ。
青すぎる空。部活帰りに何度も見上げた空と、少しだけ違って見えた。
「うん。たぶん、そうだと思う。俺、また何か見つけてみるよ。今度は、“勝ちたい”じゃなくて、“続けたい”って思えるものを」
千紗は笑った。
「じゃあ、私も考えてみる。忘れかけてた、あの頃の夢から続いてる“今の夢”を」
その瞬間、空を裂くようにヒグラシの声が響いた。
圭は、ふと思いついたように言った。
「さ、秘密基地、もう一回作る?」
千紗は目を丸くして、それから破顔した。
「……バカだね。でも、いいかも。夏休み、あとちょっとあるし」
その日、二人は拾い集めた木の板と段ボールで、小さな“新しい基地”を作った。
誰にも見えない場所で、二人だけの時間がゆっくりと流れていった。
それは、たしかに止まっていた時間が再び動き出すような、眩しくて少し切ない、真夏の一日だった。