【短編小説】幸福配送サービス

SF

日曜の朝、窓際のテーブルに置かれていたのは、見覚えのない黒い端末だった。

名刺ほどの大きさで、表面にはただひとつ「幸福配送サービス」とだけ書かれている。

男——岸本健一は、独身、40代の会社員。特別な趣味もなく、出世競争からも少し距離を置いた平凡な日々を過ごしていた。

「誰のイタズラだ……?」

そう呟きながらも、端末の画面を指でタップすると、文字が現れた。

《ご希望の幸福を一つ選んでください》

画面には選択肢が並ぶ。

【富】【名声】【愛】【健康】【成功】【家族】【友情】——

健一は首をかしげた。

(なんだこれ。通販の新手の広告か?)

しばらく迷った末、半ば冗談のような気持ちで、画面下にあった小さな入力欄にこう打ち込んだ。

【全て】

“選択を受け付けました。幸福を配送します。お受け取りまで少々お待ちください。”

次の瞬間、目の前の景色がぐにゃりと歪んだ。

気がつくと、健一は高層マンションの最上階に立っていた。

部屋の壁には自分の著書が並び、テレビでは“ビジネス界のカリスマ”として彼の特集が流れている。窓の外には、夜景の光が宝石のように瞬いていた。

「おかえりなさい、あなた」

振り向くと、美しい女性がワインを手に微笑んでいた。傍には二人の子ども。完璧な家族だった。

スマートフォンには数百件のメッセージが届いていた。「先生の言葉に救われました」「会ってください」——あふれるほどの感謝と敬意。

銀行口座を確認すると、ゼロがいくつも並ぶ桁違いの残高があった。

「……夢か?」

最初はそう思った。だが日々が過ぎるうちに、すべてがあまりにも“過不足ない”ことに気づき始めた。

仕事はすべてうまくいき、家庭は理想通り。誰も怒らず、苦しまず、失敗しない。

ある夜、彼は高級ワインを飲みながら気づいた。

「感情が……揺れない」

欲しいものはすべてある。だが、心は満たされていなかった。

ある日、何気なく以前のマンションの住所を検索すると、そこに“岸本健一”という名前の住人は存在しなかった。

まるで、過去の自分が“なかったこと”にされていた。

やがて、あの端末が再び現れた。

《返品をご希望ですか?》

健一は、初めて迷わず「はい」を選んだ。

《返品にはリスクが伴います。本当に元の人生に戻りますか?》

画面の下には、小さくこう書かれていた。

——「幸福には、適量があります」

気がつくと、健一は元のアパートにいた。

狭くて古びた部屋、冷蔵庫の中には半端な残り物。スマホには取引先からの催促のメール。

だがそのとき、窓の外に小さな夕焼けが見えた。

「……きれいだな」

胸の奥に、小さな熱が灯った気がした。

幸福とは、与えられるものではなく、見つけ出すものなのかもしれない。

端末は二度と現れなかった。

だが、健一はその日から、毎日ひとつ「自分だけの幸福」を見つけることにした。

コーヒーの香り、すれ違いざまの挨拶、小さな達成感。そんな一瞬に、彼は心を動かされるようになった。

完璧じゃないけど、確かな現実の中で——健一は、ようやく自分の物語を歩き出したのだった。

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