深海2000メートル、光も届かぬ海底に、静かに横たわっていたのは、沈没船「サイレント・リリー」だった。
発見されたのは偶然だった。日本海溝付近での無人探査の最中、ソナーが不自然な反射を検知したのがきっかけだった。
調査チームの一員、海洋考古学者の綾瀬玲奈は、引き上げられた船体を目の当たりにして言葉を失った。
「……保存状態、良すぎる」
鉄製の船体は腐食も少なく、内装までもが半世紀前の姿をそのまま留めていた。
船内の一室で発見されたのは、一冊の手帳だった。
濃紺の革表紙には、銀色の英字でこう記されていた。
《CREW REGISTRY / SILENT LILY》
「乗員記録……?」
ページをめくった玲奈の手が止まる。
中には、航海の記録と共に、乗員たちの名前、役職、そして日々の出来事が細かに記されていた。
だが、あるページから様子がおかしくなる。
《6月14日 深夜、見慣れぬ男が通路を歩いていた。名簿には載っていない》
《6月17日 “彼”はエンジンルームにいたという証言多数。だが誰も彼の顔を覚えていない》
《6月20日 “彼”と話したという乗員が、次々と姿を消している。名前も記録も、消えている》
「……これは、ただの航海日誌じゃない」
玲奈は鳥肌を覚えながらも、手帳を調査室に持ち帰り、内容を精査し始めた。
だが不思議なことに、船の公式記録には、その“記名帳”に書かれた複数の乗員の名前が存在していなかった。
いや、それどころか、その存在を示すあらゆるデータが“ない”。
「この手帳、誰が書いたの……?」
表紙に記されているはずの記載者名は、インクが滲んで読めなかった。
さらに奇妙なことが起きる。
調査チームの一人が突然、名前を間違えられるようになった。
「君、佐久間さんだよね?」
「いえ、僕は吉田ですが……?」
だがチームのメンバーの一人は言った。
「違う、佐久間吉樹……確かにこの名簿にいた」
玲奈は背筋が凍る思いだった。
誰かが“名前”を書き換えている。まるで、手帳の続きを書いているように。
ある夜、彼女は研究施設の一室で、手帳がひとりでに開かれているのを見た。
ページには、見覚えのない筆跡で新たな文章が記されていた。
《7月12日 玲奈が見た。もう遅い。君の名前は、記された》
彼女は震える手でページをめくった。
そこには、確かに彼女の名前が、最下段に記されていた。
綾瀬玲奈。研究員。接触済み。
その瞬間、研究所全体の照明が一瞬だけ暗くなった。
翌朝、玲奈は名前が呼ばれるのを待った。だが、誰も彼女を「綾瀬さん」と呼ばなかった。
「新しい方ですか?」
「名簿にお名前がなかったので」
自分の研究室に入ろうとしても、鍵が開かなかった。
パソコンのログイン画面も、アクセスカードも拒否された。
まるで——彼女が、最初から“存在しなかった”かのように。
彼女は気づいた。
“存在しない乗員”とは、忘れ去られた者ではなく、手帳に“記された瞬間”からこの世界に入ってくる存在なのだ。
そして、記された者は、逆にこの世界から“外れる”。
「記名帳」は、ただの記録ではない。
それは、深海の“もう一つの世界”と現実をつなぐ、境界線だった。
玲奈は残された最後の力で、手帳の最終ページに一文を書き加えた。
《この手帳を開く者へ。あなたの名前がまだ書かれていないなら、すぐに閉じて——そして、忘れて》
手帳はその瞬間、風もない部屋で音を立てて閉じた。
現在、「サイレント・リリー」に関する記録は一切存在しない。
ただ、ある研究室の書棚の奥に、誰も触れようとしない濃紺の革表紙のノートがひっそりと置かれている。
誰かが開くその日まで、静かに、深海の名簿は眠っている。