空港の滑走路が見える小さな町で、陸は毎朝、空を見上げていた。
通学路の途中にある丘の上。そこに立つと、ちょうど空港から飛び立つ飛行機が真上を通る。そのたびに、青空に白く長い飛行機雲が引かれる。
「今日のは、きれいに伸びたな……」
スマートフォンでシャッターを切る。陸のアルバムには、数えきれないほどの飛行機雲が並んでいた。
ある朝、彼はその丘で一人の少女と出会った。
風に揺れるセーラー服。カメラを向けると、彼女はふと振り向いた。
「撮ってるの、雲?」
「うん。飛行機雲、毎日撮ってて……」
「いいね、それ。私は雲に名前をつけるのが好き」
彼女はそう言って、にこりと笑った。
「今のは“たんぽぽ雲”。ふわっとして、どこかに飛んでいきそうだから」
「へぇ……」
陸は少し驚いた。そんな風に雲を見たことがなかったからだ。
「私、今日からこの学校に転校してきたの。紗耶って言います」
それが、紗耶との出会いだった。
それから、ふたりは毎朝、丘の上で会うようになった。
紗耶は雲に名前をつけ、陸は写真を撮る。雲の話だけで時間が過ぎていった。
「雲って、いいよね。決まった形がなくて、誰にも縛られなくて」
ある日、紗耶がぽつりと呟いた。
「……でも、いつか消えちゃう」
それが、紗耶の笑顔の奥にある影に、初めて気づいた瞬間だった。
ある日、陸は思い切って聞いた。
「どうして、雲に名前つけるの?」
「……忘れないように。すぐ消えちゃうから」
紗耶の言葉には、どこか切なさがにじんでいた。
彼女の過去を、誰も知らない。家のことも、転校の理由も。
それでも、陸は少しずつ、彼女の孤独を理解していった。
「じゃあ、僕も今日の雲に名前をつけていい?」
「うん」
陸は空を見上げた。真っ直ぐに伸びた雲の帯。
「“君の雲”。僕の世界に来てくれた雲」
紗耶は驚いたように目を見開き、やがて笑った。
「……ちょっと、照れる」
その日、紗耶は初めて、自分から陸のカメラを覗き込んだ。
「いっぱい撮ってるんだね、この空」
「うん。僕にとって空は、未来みたいなもんだから」
「じゃあ……その未来に、私もいたら嬉しいな」
その言葉に、陸は何も言えなかった。ただ、風の音と遠くのジェット音が空に溶けていくのを聞いていた。
季節は移ろい、夏が近づいていた。
ある朝、紗耶がいつもの丘に現れなかった。
翌日も、またその次の日も。
先生は言った。「家庭の事情で、転校することになったんだ」
それが、彼女からの別れの言葉だった。
陸はぽっかりと空いた空を、ただ見上げるしかなかった。
最後に残された彼女の言葉が、風のように胸に残っていた。
——「私も、この空をどこかで見上げてるよ」
数日後、陸はひとり、いつもの丘に立った。
その朝の空は、驚くほど澄んでいた。
ゆっくりと飛び立つ飛行機。その後ろに、まっすぐな飛行機雲。
陸はシャッターを切った。
スマホの画面に映るのは、あの頃と同じ空。
「……今日の雲の名前は、“君の空に溶けて”」
それは、もう会えないかもしれない誰かへの、ささやかな想い。
遠く飛行機が小さくなっていく。
けれど、陸は知っていた。
あの空のどこかで、紗耶もきっと——同じ雲を、同じ気持ちで見上げているのだと。