廃墟のような人形劇場は、町外れの丘の上にぽつりと残っていた。
古びた木の看板には、かろうじて「アルカ劇場」と読める文字。風に吹かれて軋むその音は、まるで誰かが幕を引く音のようだった。
少女・ルナは好奇心から中へ足を踏み入れた。埃の匂い、破れたカーテン、椅子の間に落ちたボタン。けれど、舞台の中央には、どこか神々しさすら漂う赤い緞帳が今も垂れていた。
ふと、足元がきしみ、舞台裏へのトラップドアが開いた。転げ落ちた先は、光のない地下の通路。そしてその先には——異様に鮮やかな、もうひとつの劇場が広がっていた。
そこは、「人形たちの国」だった。
ルナが目を見開いた先では、人形たちが自ら歩き、踊り、喋っていた。彼らは“物語”の中に生きていた。
「ようこそ、客人よ」
声をかけてきたのは、細身の王子の姿をした人形だった。金糸の刺繍、琥珀の瞳。その姿は精巧というより、どこか儚い。
「私はこの劇場の第一幕の王子、エルヴィン。君の登場を、ずっと待っていた」
「……どういうこと?」
ルナが問うと、王子人形は舞台の幕を指さした。
「ここは“終わらない劇”の国。我々人形は、与えられた役を永遠に演じ続けている。そして君は、次の幕を紡ぐ“語り部”なのだ」
ルナの背中にぞくりと寒気が走った。
「じゃあ……私がここから帰るには?」
「物語を終幕まで導くことだ。そうすれば、君は元の世界に戻れる」
その瞬間、劇場に鐘の音が響いた。新たな幕が上がる合図。
ルナは気づくと、ドレスをまとい、舞台の中央に立っていた。王子の隣に。観客席には、無数の人形たちの目が光っている。
与えられた台詞も、筋書きもなかった。けれど、劇は進んだ。言葉が自然と口をついて出た。笑い、泣き、怒り、抱きしめる。
ルナは“役”を生きた。
日々の中で、彼女は少しずつ王子と心を通わせた。王子は、人形でありながら、まるで本物の人のように悩み、苦しんでいた。
「ねえ、エルヴィン。あなたは本当に人形なの?」
王子は答えた。
「かつては人間だった者もいる。この国に来て、“役”を忘れなかった者たちは……こうして、人形になっていく」
ルナは息をのんだ。
「じゃあ、私もこのままじゃ……」
「君は違う。君には“選ぶ”力がある。終幕を描く者には、それが許されている」
そして、最後の幕が降りる日が来た。
劇場の中央で、ルナは台詞を投げかけた。
「王子、人形たちよ。私はこの物語に、終わりを与えます」
その言葉に、劇場全体が揺れた。長く続いた芝居が、ついに終わろうとしていた。
「ありがとう、ルナ。君が来てくれて、私たちは……ようやく自由になれる」
エルヴィンの瞳から、涙のような光が流れ落ちた。
舞台に花が降り注ぎ、幕が閉じる音が響いた。
次に目を開けたとき、ルナは再び、古びたアルカ劇場の観客席に座っていた。
手には、王子人形のブローチがひとつ、残されていた。
それは、確かにあの国が存在した証。
ルナは静かに劇場を後にした。
外の空は、少しだけ柔らかな光に満ちていた。