水平線と空の境が、まるで水彩画のようににじんでいた。
エンジンの音はなく、帆に風が通る音だけが、静かに胸に響く。
葵は大学を卒業した春、何の確信もなく一人、ヨットで海に出た。行き先も決めず、地図もろくに見ず、ただ「まだ見ぬ場所に行きたい」という想いだけを積んで。
「人生ってさ、どこに舵を切っても正解か不正解かわからないよね」
出港前、親友にそう漏らしたら、「それでも船は進むよ」と返された。
一週間の航海ののち、嵐が来た。突然の風、押し寄せる波、崩れる帆。ヨットは制御を失い、葵はただ祈るように操縦桿を握っていた。
気づけば、小さな無人島の入り江にたどり着いていた。
「助かった……のかな」
身体は打ちつけられた疲労で重く、意識はぼんやりしていたが、確かに命は繋がっていた。
砂浜に倒れたまま眠っていた葵を起こしたのは、野太い声だった。
「おい、死んじゃいねぇよな?」
目を開けると、目の前には、無精ひげの男が立っていた。海風に焼けた肌、鋭い目つき。だがその瞳の奥には、どこか深い静けさがあった。
「ここは……?」
「たまに船が流れ着く島さ。お前は何人目だったか……三人目、かもな」
男は簡素な小屋に葵を運び、傷の手当てをしてくれた。名を尋ねると、「ソウジ」とだけ名乗った。
それから数日、葵は島の生活に身を委ねた。食料は海と森が与えてくれたし、星空は毎晩、異国のような美しさだった。
「なんで、こんなところに?」
焚き火の前で葵が尋ねると、ソウジは海を見つめながら答えた。
「俺も、逃げてきた。船乗りだったが、事故で仲間を……守れなかった。それから、海に出るのが怖くなった」
葵は黙って聞いていた。自分も同じだった。社会という名の大海原に漕ぎ出すのが、怖かった。
「でもな、最近思うんだ。海は、何も奪っちゃいなかった。俺が、勝手に怖がってただけかもしれないってな」
翌朝、葵は決めた。
「もう一度、出ます。どこにたどり着くかわからないけど、ちゃんと進んでみたい」
ソウジはしばらく黙っていたが、やがて帆の修理を手伝い始めた。
「じゃあ、まずは風を読む練習だ。海の声に耳を澄ませろ」
再び帆を上げる朝、空と海の境界は薄く、風は追い風だった。
「葵、風を読むのを忘れるな。それから、たまには立ち止まってもいい」
「はい。でも、止まりたくなったら、この島にまた来ます」
「そのときは、焚き火でも囲もう」
葵は手を振り、船を進めた。
海と空の青が溶け合うその先に、彼女だけの航路があった。