滑走路を吹き抜ける風は、いつだって何かを運んでくる。
元ベテランパイロットの圭一は、飛行学校の訓練教官として、静かな日々を送っていた。制服を脱いで五年。彼はもう、自ら操縦桿を握ることはなかった。
かつて事故で副操縦士を失い、自分だけが生き残った。原因は突風による乱気流だったが、それを「読み切れなかった」ことが、圭一の心に重く残っていた。
「風を読む力が、俺から離れたんだ」
そう言って、彼は自ら飛ぶことをやめた。
その年の春、訓練生の一人として、日菜という若い女性が入校してきた。
「日菜、年齢は?」
「25です」
「動機は?」
「飛びたいからです。……この空を、ずっと見上げてきたから」
迷いのないまっすぐな目。圭一は、どこかで見たことのある光を彼女の中に感じた。
日菜の技術はまだ荒削りだったが、操縦桿を握る手は決して震えなかった。彼女は風を怖がらず、むしろそれと対話しようとしていた。
ある日、実技訓練中に小さな乱気流が発生した。
「冷静に、風を感じろ」
圭一の声が無線に響く。
「大丈夫です。……風が右から上がってきてる。機体を2度傾けます」
圭一は息を呑んだ。
まるで——あのとき、自分ができなかった読み方を、彼女がしていた。
訓練後、格納庫で日菜がぽつりと言った。
「……私の父、航空事故で亡くなったんです。あの事故のニュース、覚えてますか?副操縦士が犠牲になったやつ」
圭一の背筋が凍った。
「まさか、あのときの……」
日菜はうなずいた。
「でも、恨んでません。むしろ、空を嫌いにならなかった父を、私は誇りに思ってます。だから、私も飛びたかった。風を読むって、父がいつも言ってたから」
圭一は、その場に立ち尽くした。
あの日、自分が背負ってきた後悔と、逃げていた真実。だが、今ここにいる日菜は、未来を見ていた。
「——お前の飛び方、父さんに似てるよ」
その一言が、ようやく圭一の胸の風を解き放った。
翌月、日菜は最終試験を受けた。
監督官として立ち会った圭一は、久しぶりに空を見上げながら、風の動きを追っていた。
「いい風が来てるな……」
無線の先で、日菜の声が響く。
「はい、今、風を読みました」
青い空を切り裂いて、小型機が美しく旋回する。
——風は、いつでもそこにある。ただ、読む勇気がなければ、その意味に気づけないだけだ。
その日から、圭一は時折、訓練機に同乗するようになった。
飛ばない教官ではなく、“風を読む教官”として。
新しい風が、再び彼を空へと押し上げていた。