夜明け前、海はまだ眠っているかのように静かだった。
真司は父の形見のゴム長靴に足を通し、小さく息を吐いた。冷たい風が頬をかすめ、潮の匂いが鼻先に染み込む。
「親父も、こんな朝を毎日過ごしてたんだな……」
過疎の進む小さな漁村・潮路(しおじ)町。かつてはにぎわった港も、今や数隻の漁船と高齢の漁師たちしか残っていない。真司はこの村で生まれ育ち、大学進学を機に一度は離れた。だが、父が海の事故で急逝したという報せを受け、何も言わず帰郷した。
「漁師なんて時代遅れだって、思ってたくせに……」
だが、父の残した船と帳簿、そして村の仲間たちの言葉が、真司の心に居場所を与えた。
「お前が継いでくれるなら、まだやっていけるかもしれん」
そう言ってくれたのは、父と長年一緒に船を出していた政男だった。
真司は漁師としての経験も浅く、最初は網の引き方さえままならなかった。だが、若さと柔軟さを武器に、彼は新しい道を探り始めた。
「この魚、ネットで直販できるんじゃないですか?」
「なに?スマホで魚が売れるのか?」
政男たちは最初、笑って取り合わなかった。だが、真司が実際に作ったSNSの投稿に、都会のバイヤーから注文が入り、状況は一変した。
「おい真司、次はどの魚を“インターネット”に出すんだ?」
笑いながらそう聞かれる日々が始まった。
さらに真司は、昔ながらの定置網に加え、ドローンを使った魚群探知や、地域の観光客を呼び込む「体験漁業」の企画まで提案した。
「ただ魚を獲るだけじゃ、もう続かない。海と人を、もっとつなげなきゃ」
だが、反発もあった。
「伝統を壊す気か」「そんな新しいもんに頼って、海が育つか」
古参の漁師たちとの衝突は避けられなかった。
ある日、真司は一人で夜の海に出た。凪いだ水面に、星が映っている。船を止め、空を見上げた。
「親父……俺、間違ってないよな?」
波の音が静かに返す。まるで「答えは自分で見つけろ」と言われているようだった。
数日後、村の祭りの日。真司は港の倉庫で、「潮路町 漁師の食卓」と題したイベントを開いた。新鮮な魚と地元野菜で作った料理、昔の漁の写真展示、そして浜辺での潮干狩り体験。
子どもたちの笑い声と、観光客の驚きの声が港に響いた。
その光景を見ていた政男が、ぽつりと言った。
「お前のやり方も、悪くねえな」
真司は、少し笑ってうなずいた。
「俺たちの海、まだまだ生きてる。守っていけるよ」
海に出るたびに、父の背中がふと見える気がする。
そして今、自分もその背中を追いかけている。
潮の流れは変わる。
だが、その中に「進むべき道」が必ずある——
真司は今日も、帆をあげる。潮の道しるべを、心に描きながら。