木曜日の午前十時。絵理子はお気に入りのエコバッグを肩に、近所のスーパーへと歩き出す。家族が出かけた後の、たった一人の静かな時間。それが、彼女にとっての“小さなごほうび”だった。
「さて、今日は何が安いかしら」
入り口のチラシ棚から一枚抜き取り、目を走らせる。トマト、卵、鶏むね肉。冷蔵庫の残りと照らし合わせながら、献立を頭の中で組み立てていく。
“金曜はカレー、土曜は唐揚げ。日曜は……冷蔵庫一掃パスタかな”
買い物カゴの中には、いつもの野菜と調味料。そして、ついつい手が伸びてしまう、期間限定のチョコレート。
「これが、きょうのお買い得ね」
誰に聞かせるわけでもなく、つぶやいて笑う。
精肉売り場の角で、絵理子はふと足を止めた。レジ横のワゴンに、見覚えのある顔があった。年配の女性が一人、手にした惣菜パックをじっと見つめている。
「あら、田島さん?」
声をかけると、女性は振り返り、目を細めて笑った。
「まぁ絵理子さん、久しぶりね。お元気そうで」
「田島さんこそ。ご主人はお変わりありません?」
「ええ、あの人は食欲だけは年中無休よ」
二人は少しだけ立ち話をした。些細な会話だったが、心がふっと温かくなる。こういう出会いもまた、スーパーでの“お買い得”の一つかもしれない。
買い物を終え、レジを抜けたところで、絵理子はカゴの中身を見つめた。
トマトが真っ赤で、さっきまで冷蔵ケースの中にいたとは思えないほど瑞々しい。小松菜は青々とし、鶏むね肉には程よい張りがある。
「これで今夜は、トマトと小松菜の卵炒めね」
家に帰ると、陽だまりのキッチンで、さっそく下ごしらえを始めた。料理中に鼻歌を口ずさむ癖は、結婚前からのもの。気づけば、鍋の中から良い香りが立ちのぼってくる。
午後二時。買ってきたチョコレートを一粒、紅茶と一緒に味わう。
「ふぅ……幸せ」
それは、特別な日でも記念日でもない、ただの木曜日の午後だった。
けれど、こうした一つ一つが、絵理子にとっての“生活”であり、心を豊かにしてくれる“宝物”だった。
翌週もまた木曜日がやってきた。
絵理子はいつものようにエコバッグを持ち、スーパーへと向かう。風の匂いが少し変わっていた。季節がまた一歩、進んでいる。
「きょうのお買い得、なにかしら」
そうつぶやく声には、変わらぬ穏やかさと、少しの期待がこもっていた。