エンジンをかけた瞬間、眠気がふっとどこかへ飛んでいく。
小さな出版社に勤める智は、毎朝バイクで通勤している。都心の雑多な街並みを抜け、川沿いを走り、ビルの谷間をすり抜ける。ヘルメットの中、鼓膜を震わすエンジン音が心地いい。
「今日も一日、始まったな」
智の愛車は、父から譲り受けた中型バイクだった。古い型だが、よく手入れされた銀色の車体が、朝日を浴びてかすかに輝いている。
渋滞の車列を横目に、バイクはするりと前へ進む。助手席の子どもが眠そうな顔で窓に頬を押しつけているのが見えた。信号待ちで、歩道の花壇に咲く季節の花に目をやる。
春の始まりは、沈丁花の香り。初夏には、ほんのりと青い空気。秋の乾いた風が頬に当たると、季節の移ろいをヘルメットの奥でそっと感じる。
「四季って、こういう時に生きてるって思えるな……」
ハンドルを握る手に、少しだけ力が入った。
出版社での仕事は、派手ではない。小さな実用書や趣味のガイドブックを作る日々。締め切りに追われ、時に原稿の遅れに胃を痛め、営業と編集の板挟みにあうこともある。それでも、ページをめくる読者の顔を想像すると、不思議と頑張れた。
「いつか、自分のバイクの本を作りたいな」
そんな小さな夢が、バイクの音とともに胸に残っていた。
ある朝、いつもの交差点で信号待ちをしていると、隣に小型バイクが停まった。乗っていたのは若い女性だった。お互いヘルメット越しに軽く会釈を交わす。ほんの一瞬のこと。でも、見知らぬ誰かとバイクを通じて通じ合えたような、不思議な連帯感があった。
「バイクって、いいな」
会社に着き、バイクを駐輪場に止めると、そっと車体を撫でる。ありがとう、と言うように。
午後、編集部でデスクに向かいながらも、朝の風を思い出すことがある。
——あの川沿いの道、もう少しスピードを緩めてみようか。もっと景色が見えるかもしれない。
そう思うだけで、次の朝が少し楽しみになった。
夕方、残業の手を止め、帰り支度をする。バイクの鍵をポケットにしまうと、今日もまたエンジンをかける音が胸を震わせた。
「明日も、いい風が吹くといいな」
夜風は少し冷たく、でも心地よかった。
ヘルメットの奥で、智の顔は自然とほころんでいた。