春の風が、頬を優しくなでていく。
亮介は地図も持たず、自転車のペダルをゆっくりと踏み込んだ。大学を卒業し、就職を控えたこの春、彼は唐突に一人旅に出た。きっかけは、夜の酒席でふと口にした「どこか遠くへ行きたい」という自分の言葉だった。
家に置いたスマホには電源を入れず、コンパスも使わない。目に入った道を進み、気の向くまま、ただペダルを漕ぐ。
「どこに向かってるんだろうな、俺」
それでも、自転車が風を切る音と、タイヤがアスファルトを撫でるリズムは、何よりも心地よかった。
ある町の公園で、亮介はベンチに座り、サンドイッチをかじった。隣に座った老人が話しかけてきた。
「旅の途中かい?」
「ええ、まあ……どこかへ行こうと思って」
老人は微笑んで、空を見上げた。
「若いうちに、道草を食うのもいいもんだ。道草の味が、大人になってからの土台になる」
亮介はその言葉を、しばらく胸の中で転がした。
翌朝、夜明け前に目覚めた亮介は、見晴らしのいい坂道にいた。東の空が淡く朱に染まり、静寂の中、鳥の声だけが響く。
「これが、自由ってやつか……」
ペダルを強く踏み込み、坂を駆け降りた。風が目尻に涙を運び、心の奥のもやが少しずつ晴れていくようだった。
だが、旅は楽しいだけではなかった。
突然の雨に打たれ、コンビニの軒先で震えながら夜を明かした日もある。腹が減り、乾いたパンをかじりながら、家の食卓を思い出して泣きたくなった日もある。
それでも、道の先には必ず新しい景色があった。
山間の小さなカフェで、黙々とコーヒーを淹れる若い夫婦に出会った。商店街の古書店で、店主がくれた旅日記の文庫本。海沿いの町で、浜辺に一人座り、空を見上げている同年代の青年と語り合った。
「帰りたい場所って、ある?」
その問いに、亮介は答えに詰まった。
でも、旅を続けるうちに、胸の奥で小さな声が響くようになった。
——あの家の扉を開けたときの匂い。
——母が作る味噌汁の湯気。
——父の無骨な声。
旅の終わり、亮介は気づいていた。
どこか遠くへ行きたかった理由は、「帰る場所の意味」を知りたかったからだったのだ。
そして今、彼の前に広がるのは、あの街の見慣れた道。
ハンドルを握る手に力がこもる。
「ただいま」
心の中で呟き、ペダルをもう一度、強く踏み込んだ。