村のはずれ、風に葉音を響かせる一本の巨木があった。
樹齢千年と伝わるその木は、「千年樹」と呼ばれ、村人たちに大切にされていた。幹は太く、両腕を広げても抱えきれないほど。枝葉は夜空を隠すほど広がり、昼間は優しい影を地面に落としていた。
そして、こんな伝承が残っていた。
——夜になると、木は願いを囁く声を風に乗せる。
ユナがその話を初めて聞いたのは、母を亡くした年のことだった。
「ママの声も、聞こえるの?」
父にそう尋ねると、父は困ったように笑い、そっとユナの頭を撫でた。
それから幾年も過ぎ、ユナは十二歳になった。月のきれいな秋の夜、彼女はひとりで千年樹のもとを訪れた。
「お願い、声の正体を知りたいの。ママに、もう一度会いたいの」
月明かりが葉を透かし、地面に揺れる光の模様を描いていた。
ユナは根元に座り込み、静かに耳を澄ませた。
風が枝葉をくぐるたび、どこからともなく声が響くように思えた。
「……だれ?」
ユナがそう呟くと、木の幹がふっと淡く光った。
「よく来たね、小さな願いの人よ」
目の前に現れたのは、木の精霊だった。姿は透き通るようで、夜露に濡れた葉のようにきらめいていた。
「あなたが……ささやいてたの?」
「千年の時を越えて、この木に宿るものだ。ここに集う願いや想いが、私の声になる」
「ママの声も……?」
精霊は優しく首を振った。
「お前の母の想いも、この木が受け止めている。けれど声は、母そのものではなく、母の願いだ」
「……母の願い?」
「そう。お前が強く生きること、お前が幸せであること。それが、母の声となり、この木を通して届いている」
ユナの瞳に、涙が浮かんだ。
「ママ……」
精霊はそっとユナの頭に手を置いた。
「お前が心に宿す限り、母の声は風の中にある。そして、この木もまた、その声を運び続ける」
夜が明け始め、千年樹の葉が淡い光に染まり始めた。
ユナは立ち上がり、精霊に向かって深く頭を下げた。
「ありがとう。私……もっとがんばる。ママが安心できるように」
精霊は何も言わず、朝の光の中に溶けていった。
その日から、ユナは朝晩、千年樹に向かって「おはよう」と「おやすみ」を言うようになった。
千年樹の葉は、いつも優しい風とともに揺れていた。
そして、願いは静かに風に溶け、誰かの心をそっと支え続けていくのだった。