【短編小説】風を背負って

ドラマ

春先の野を抜ける風は、どこか父の背中の匂いがした。

若き行商人・タケルは、父の形見の荷車を引き、ひとり道を歩いていた。荷車には布、器、塩、薬草、村から村へと運ぶ品々がぎっしり詰まっている。

「今日もいい風だ。父さん、見てるか?」

つぶやく声は誰にも届かない。それでも、風は彼の頬を撫でるように通り過ぎていった。

タケルの父は、腕利きの行商人だった。だが、数年前の大嵐で川に流され、帰らぬ人となった。父の背を見て育ったタケルは、形見の荷車を受け継ぎ、自分の足で道を歩き始めたのだ。

最初の村で、タケルは麻布を広げた。

「これは雨にも強い上質な布です。村の仕立て屋に勧めたいと思って」

年老いた仕立て屋は、布を手に取り、しばらく無言で撫でていた。

「いい手触りだ。だが、若いの、商いは値だけじゃないぞ。この布の向こうに、どんな暮らしが見えている?」

その言葉に、タケルははっとした。

「暮らし……」

彼はまだ、物を運び、値をつけ、売ることしか考えていなかった。

その夜、村の宿でタケルは父の口癖を思い出した。

——「行商は、物の売り買いだけじゃない。人の願いや想いを運ぶことだ」

次の村では、タケルは薬草を持って老夫婦を訪ねた。老夫婦の孫が病で寝込んでいると風の噂で聞いたのだ。

「この薬草は、熱を鎮める力があります。使い方も、きちんとお教えします」

老夫婦は涙を浮かべ、何度も頭を下げた。

「このご恩、一生忘れません」

その言葉が、どんな高価な品よりも心に重く響いた。

道中、時には他の行商人と商いの駆け引きをし、時には野盗に荷を狙われることもあった。だが、そのたびにタケルは知恵と勇気で切り抜けた。

ある村では、祭りに間に合わせるため、夜通し器を磨いた。別の村では、貧しい家族に布を分け、代金の代わりに村の特産品を譲り受けた。

——そうして旅を重ねるうち、荷車はどこか父のものとは違う、タケルだけの色を帯び始めていた。

秋の終わり、タケルは川沿いの宿場町にたどり着いた。荷車を止め、橋の上で風に顔を向ける。

「父さん、俺、少しは近づけたかな」

答えはない。ただ、風が背中を押すように吹いていた。

荷車の車輪がきしみ、また一歩、道を進み始める。

風を背負い、タケルの旅は続いていく。

タイトルとURLをコピーしました