火曜日の朝は、バターの香りから始まる。
小さなキッチンに差し込む光の中で、花は静かに粉を混ぜ、牛乳を加え、卵を落とす。ひと匙のバニラエッセンスを加えるのが、夫の好みだった。
夫を亡くして五年。今では一人暮らしにも慣れたけれど、火曜日だけはふたりの記憶に戻る。最後に一緒に食べたのが、あの火曜日のパンケーキだったからだ。
その日、花はふと外の風が恋しくなり、近所のカフェに焼きたてのパンケーキを持参して行った。注文を済ませ、温めてもらった自家製パンケーキをゆっくりと味わっていた。
「すみません、それ……どこのパンケーキですか?」
隣の席から声をかけてきたのは、大学生くらいの青年だった。柔らかな髪と少し眠たそうな目が印象的だった。
「これ? 自分で焼いたのよ。毎週、火曜日だけ」
「……その香り、なんか懐かしくて。うちの祖母も似たようなパンケーキ焼いてた気がします」
「バニラエッセンスを多めに入れてるのよ。ちょっと甘いけど、ふわっとするの」
青年は目を細めた。
「そう、それです。祖母が“甘さは記憶に残るから”って言ってました」
花は笑った。
「素敵な言葉ね。私の夫も、火曜日になるとパンケーキをせがんでね。最後に焼いたのも、火曜日だったの」
青年は黙って頷いた。ふたりの間に、静かな時間が流れる。
「僕、火曜日が嫌いだったんですよ。週のど真ん中で、疲れが溜まるし。けど、今日みたいな火曜日なら、ちょっと好きになれそうです」
「ふふ、それなら毎週、火曜日にパンケーキを焼きなさいな。あなたのために」
青年は少し照れくさそうに笑った。
「……今度、レシピ、教えてもらえますか?」
花は頷いた。その日はレシピを書き留めたメモを渡し、名前も聞かずに別れた。
それから数週間、火曜日にその青年とカフェで会うのが習慣になった。彼は少しずつ、自分で焼いたパンケーキを持ってくるようになった。
「まだまだ、花さんの味には敵いません」
「コツはね、“待つこと”。生地が落ち着くまで、急がないことよ」
「……あ、それ、人生にも言えますね」
笑い合うふたりの間に、世代の差なんて気にならないほどのぬくもりがあった。
やがて青年は一通の手紙を花に渡した。春から地方の大学に進学するという報告だった。
「でも、火曜日のパンケーキは、続けます」
手紙の最後に、そう記されていた。
春。花は相変わらず火曜日にパンケーキを焼いている。けれど、その味には少しだけ新しい記憶が混じるようになった。
窓の外の風が、どこか懐かしい香りを運んでくる。
パンケーキは、火曜日に。
思い出と、誰かの未来を焼き込んで。