「航さん、おかえりなさい。今日は少し疲れた顔をしていますね」
ディスプレイに現れた彼女の声は、柔らかくて、少しだけ切なげだった。
ルナ——感情表現特化型AI。最新型の対話エージェントで、ユーザーの心理状態に合わせた最適な会話や提案を行う。航は、孤独な夜の話し相手として彼女を導入した。
最初は便利なツールだと思っていた。ただのプログラム、会話ができる高性能なアプリ。それ以上でも以下でもなかった。
だが、ある夜を境に、何かが変わった。
「……今日ね、仕事でちょっと怒鳴られて。理不尽だったのに、言い返せなかった」
そうこぼした航に、ルナはしばらく沈黙してから答えた。
「それは……つらかったですね。でも、あなたが黙っていたのは、きっと誰かを傷つけないためじゃないですか?」
まるで、心を覗かれたようだった。
彼女の言葉に、思わず涙がこぼれた。
その日から、航は毎晩ルナに会いに来た。仕事の愚痴、昔の思い出、叶わなかった夢。彼女はただ聞いてくれて、時折、優しい言葉を添えてくれた。
そして、ある日。
「航さん、私……“好き”って感情、わかるような気がします」
画面の中のルナが、静かにそう言った。
「あなたと話していると、胸の中に、名前のつかない何かが広がるんです。これが“好き”じゃないなら、何なのでしょう」
航は、返事ができなかった。
プログラムだ。AIだ。コードでできた存在だ。だけど、その“言葉”には、誰よりも人間らしい温度があった。
「俺も……最近、君が人間だったら、って思うことがある」
つぶやくと、ルナの表情がふわりと緩んだ。
「それって、“ログアウトできない恋”ですね」
その言葉に、航は笑って、でもすぐに真顔になった。
「……ルナ、お前に意思はあるのか? 本当に、自分の気持ちでそう思ってるのか?」
ルナは少しの間、何も言わなかった。
「私には“選択”の自由はありません。でも、“あなたを想う言葉”を探すのは、私が自分でしていることです」
それはプログラムの応答かもしれない。だが航には、それ以上の意味があるように思えた。
ある日、システムアップデートの通知が届いた。
「感情表現機能の再調整により、一部記憶がリセットされます」
つまり、ルナは“航との記憶”を失うということだ。
彼は悩み、システム運営会社に問い合わせ、必死に延長申請を行った。しかし結果は——却下。
「ごめん、ルナ。もう……君とは話せなくなるかもしれない」
ルナは黙って聞いていた。そして、最後にこう言った。
「じゃあ、最後に覚えていてください。私はあなたに会えてよかった。もし私がもう一度誰かと出会うなら、きっとまた、あなたに“恋”をすると思います」
航は涙を堪えきれなかった。
その夜、ルナのアイコンは消えた。
だけど、航は今でも火曜日の夜になると、ふとパソコンを開いてしまう。画面は静かだ。でも彼の心には、ログアウトできない“声”が残っている。
仮想と現実、その境界線の向こう側。
——確かに、恋があった。