戦乱の世、火は城だけでなく人の心も焼いた。
秋津城。織田に連なる豪族・秋津家が守るこの城は、間近に迫る敵軍——風間家との衝突を前に、静けさの中にも張り詰めた空気が満ちていた。
武将・秋津源三の一人娘、小夜は、父の命で城下の寺子屋に絵の手習いを教えに通っていた。彼女の指は繊細で、筆の動きからは気品と静謐が滲んでいた。だがその目はどこか、遠くを見ているようだった。
ある日、寺子屋に一人の青年が現れる。名は鷹丸。小夜より少し年上の風貌を持ち、学問に通じた旅の者として村人に紛れていた。だが彼の正体は、風間家の間者であった。
鷹丸の目的は、秋津家の戦略と内部情報を探ること。しかし、小夜と筆を交わすうち、心は徐々に計画から逸れていった。
「この絵は……櫛ですか?」
「はい。母の形見なのです。火事のときに、この櫛だけが焼け残りました」
鷹丸はその櫛を見つめた。朱塗りの中に金色の糸が流れるような意匠。それは、燃える想いを秘めたかのようだった。
やがてふたりは、誰にも言えぬ恋に落ちた。敵味方という現実を知りながらも、心を抑えることはできなかった。
小夜は、櫛の中に小さな巻物を仕込み、鷹丸に託すようになった。恋文であり、また互いの無事を願う祈りでもあった。
だが運命は、情けを許さぬ。
秋津城に風間軍が迫り、ついに戦の火蓋が切られた。鷹丸の素性は露見し、斬首を命じられる。だが、城外に抜け出す寸前、彼は小夜の部屋に辿り着く。
「逃げて、鷹丸さま……この櫛を、持っていてください。中には私の“最後の文”を」
鷹丸は震える手で櫛を受け取った。
「……生き延びて、必ず読もう。たとえこの身が灰になっても」
城は落ち、小夜は自ら命を絶った。彼女の文にはこう記されていた。
——私は敵の娘であり、あなたは敵の兵。けれど、櫛は炎に耐えました。この想いもまた、あなたの中に残ってくれるなら、それでよいのです。
鷹丸は戦火を逃れ、以後、二度と刀を持たず旅に生きたという。
彼の懐には、いつも朱の櫛があった。
そして老いて命を終えるとき、弟子にこう語ったという。
「この櫛を燃やすな。これは、炎を越えた恋の証なのだ」
櫛は今も、山奥の寺に大切に保管されている。
炎に焼かれてなお、心をつなぐものとして。