理央は、ただ静かな場所が欲しかった。
都会の喧騒、上司の叱責、繰り返す残業。ふと目を閉じると、音が押し寄せてくる。電車のアナウンス、人の足音、スマホの通知音。どこまでも音がついてくる。
それが嫌で、週末、理央は思い切ってひとり車を走らせた。ナビも途中で切って、勘に任せてたどり着いたのは、山間の小さな森だった。
人気のないその森は、風の音と鳥の声しかなく、理央はようやく自分の呼吸を感じられた。林道を外れ、小道を進んでいくと、やがて開けた空間にたどり着く。
そこに、一本の不思議な木が立っていた。
幹は白く滑らかで、葉は陽を透かすほどに透明だった。風に揺れるたびに、葉がキラキラと小さな音を立てる。その音が、妙に懐かしい響きを持っていた。
理央が木の前に立ち、そっと手を伸ばすと、風がふっと止まり、透明な葉が一枚、肩に落ちた。
その瞬間、耳の奥で声が聞こえた。
——「りお、見て見て!てんとう虫!」
それは、理央自身の声だった。幼い頃、田舎の祖母の家で過ごした夏の記憶。庭で虫を追いかけていた、あのときの自分の声だった。
「……なんで、こんな声が……?」
驚いて後ずさる理央の足元に、また一枚、葉が落ちる。
——「いつか絵本描きたいって、言ってたよね」
大学の頃、親友に話した夢。就職活動に追われる前、自分が口にしていた言葉。
理央は息を呑んだ。この木は、人の“過去の声”を記憶している。
そして、忘れてしまった願いを、そっと返してくれる。
理央はその場に座り込み、静かに目を閉じた。葉の音が重なり合い、まるで子守唄のように心を撫でていく。
——「絵が好き、って思うだけで、なんか嬉しかった」
——「大丈夫、大人になっても、夢は変わらないよ」
——「りお、笑ってるときが一番好き」
懐かしい声、愛しい声、もう会えない人の声が、葉のささやきに混じって響く。理央は静かに涙を流した。こんなにもたくさんの声を、心のどこかに置き去りにしてきたのだ。
その晩、理央は森の端にある小さな民宿に泊まり、夜中までスケッチブックを開いた。描くのは、あの透明な葉の木。幹の柔らかさ、葉の光のゆらぎ、そしてそこに宿る声の気配。
朝、理央は再び森へ向かった。木は変わらず、静かにそこにあった。だが、葉の一部がすでに落ち、地に還ろうとしていた。
「また、来るね」
理央はそう囁いて森を後にした。帰りの車内で、窓の外に風が吹くたび、あの葉のささやきが心の中に響いていた。
あれから、理央は毎週末、少しずつ絵を描いている。自分の声に、もう一度耳を澄ますように。
そして、いつか絵本に綴ろうと決めた。あの森の木のこと。葉に宿る、忘れていた声の物語を。
——一粒の声が、また誰かの願いを照らすように。