【短編小説】最後のジャンプ

ドラマ

水族館の朝は、静かな水音から始まる。

開館前、まだ誰もいないプールサイドに立つ沙織は、すでにそこに浮かぶ一つの影に目を細めた。イルカの「リーフ」。灰色の背中に白い斑がある、人懐っこいオスのバンドウイルカだ。

沙織が新人だった十年前、初めて触れ合ったイルカがリーフだった。最初は近づくのも怖かった彼女に、リーフはやさしくヒレを差し出してくれた。その瞬間から、彼女にとってこの水槽は職場ではなく“舞台”になった。

「リーフ、おはよう」

軽く手を振ると、リーフは一回転して水面をはねた。それが沙織との合図だった。

だが、この舞台がまもなく幕を閉じる。

運営会社の方針転換により、水族館の閉館が決まったのだ。建物の老朽化、来場者数の減少。時代の流れと一言では済ませられない、現場で働く者にとっては心の一部を失う決定だった。

「リーフは、シンガポールの施設に移送されるそうです」

園長の言葉に、沙織は小さく頷いた。

リーフは他国のトレーナーに引き取られ、新しい仲間と新しいショーを始めるだろう。だが、それは今までの時間に“終わり”を突きつける言葉でもあった。

沙織は最後のステージを考えていた。

かつて挑戦し、失敗した演目があった。リーフとの「トリプルスピン・ジャンプ」。沙織の合図とリーフの飛翔が、0.1秒でもずれれば水中で回転が乱れ、失敗する高難度の演技だ。

あの日、彼女は合図を遅らせてしまった。リーフはバランスを崩し、水面に落ちた。その日を最後に、ふたりはその演目に触れなかった。

でも今ならできるかもしれない。

「リーフ、もう一度、あのジャンプやってみよう」

沙織の声に、リーフは一瞬じっと見つめたあと、水を蹴った。

リハーサルは一発では決まらなかった。合図のタイミング、水深、回転角度。失敗のたびに沙織は水をかぶった。それでも彼女は笑った。リーフがそばにいる限り、怖くなかった。

迎えた最終公演の日。

観客席は満員だった。かつて沙織が指導した後輩たち、地元の子どもたち、そしてリーフのファンたち。

ショーの終盤、沙織はマイクを外し、静かに言った。

「これが、リーフとの最後の演技です。私たちが、ずっと夢に見ていたジャンプを、どうか見届けてください」

合図の手が水面を叩いた瞬間、リーフは空へ向かった。

一回転、二回転、三回転——完璧だった。

水しぶきが虹を描く中、観客から大きな拍手が巻き起こった。

沙織は涙を拭きながら、リーフに手を伸ばす。

「ありがとう、リーフ。最高だったよ」

リーフは、ヒレで沙織の手にそっと触れた。

それが、ふたりの最後の合図だった。

数日後、リーフは新天地へ旅立った。

沙織は今、別の海辺の施設で子どもたちに海洋生物を教えている。

でも、ふと夜空を見上げると、あの日のジャンプの軌跡が星のように浮かんでくる。

空を舞ったリーフの姿は、永遠に彼女の胸に残っている。

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