【短編小説】今日もネットの波の上で

日常

高橋健太、三十五歳、独身、東京都内の広告代理店勤務。毎朝八時に家を出て、地下鉄で四十分、出社してデスクに座る。日々のルーティンは退屈ではあるが、耐えられないほどではない。

だが、彼にとって一日の中で最も心躍る時間は、ランチ後の「三十分」である。

午後一番の会議が始まるまでのわずかな空き時間。誰も気に留めないそのスキマ時間に、高橋はネットサーフィンに没頭するのだ。

パソコンのブラウザには、常に複数のタブが開いている。今開いているのは、ブルガリアの伝統料理「バニッツァ」のレシピ。パイ生地にチーズとヨーグルトを重ねて焼く料理らしい。画像を見ているだけで、ヨーグルトの香りが立ち上ってきそうだった。

「へぇ……ブルガリアでは元日に紙くじを入れて焼くんだってさ」

小さく呟きながら、ページを下にスクロールすると、関連リンクに「アニメ『未来冒険タクヤくん』(1983)」の文字が目に留まる。思わずクリックすると、懐かしいオープニングソングの動画が表示された。そういえば小学生のとき、朝ごはんを食べながら観ていたっけ。

その隣には、「ウズベキスタンの結婚式に招かれた話」という個人ブログ。写真の中で笑顔の新郎新婦と並んでいるのは、明らかに日本人旅行者だった。色鮮やかな民族衣装、羊の丸焼き、ダンス。まるで自分もそこにいたような気分になった。

高橋にとって、インターネットは“現実逃避”ではなく、“現実拡張”だった。

日々の生活に不満があるわけじゃない。ただ、会社と家の往復だけでは出会えない世界が、ブラウザの向こうに広がっている。興味の赴くまま、リンクを辿るその行為が、彼の中で「ちょっとした冒険」だった。

ある日、彼は偶然「無人島で見つけた瓶詰めの手紙」という記事に出くわす。本文にはこう書かれていた。

《誰かに読まれるかわからないこの手紙が、どこかで小さなきっかけになりますように》

それを読み終えた瞬間、ふと心の奥がじんわりと温かくなった。

——高橋もまた、誰かの“瓶詰めの手紙”に出会っていたのかもしれない。

その日、彼は帰宅途中のコンビニでギリシャヨーグルトを買った。特に理由はなかった。ただ、ブルガリアの料理を思い出したから。それだけのことだったが、なんだか少しだけ良い一日になった気がした。

日常は変わらない。明日もまた、同じ電車に乗り、同じような会議に出るだろう。

でも高橋には知っている。

今日も世界のどこかで、誰かがパイを焼き、誰かが知らないアニメに心躍らせ、誰かが砂浜に瓶を流している。

そして自分は、画面の向こうのその一瞬を、偶然キャッチできる旅人なのだ。

ランチが終わり、コーヒーを片手に椅子を倒す。

「さて、今日はどこに行こうか」

クリック一つで、彼の小さな冒険がまた始まる。

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