夏休みの朝5時半。蝉の声もまだ弱々しく、町は眠りの残像をまとっていた。小学四年生の悠真は、冬の布団より逃げたいほどラジオ体操が苦手だった。でも今年は違った――。
「おはようございます!」
夏休み初日の朝、隣の家に越してきた少女・夏音(かのん)が爽やかに声をかけた。シャイな悠真はドギマギしてうなずくだけだったが、その笑顔に、ほんの少しだけ気持ちが軽くなった。
翌朝から、二人は揃って大広場へ向かうようになった。
体操帳を手に、ラジオのアナウンサーの掛け声に合わせて体を動かす。普段の忍び笑いは吹っ飛び、目を閉じて深呼吸するだけでも心地よかった。何より――隣に夏音がいるから。
ある朝、ラジオ体操が終わりかけたとき、夏音が小声で言った。
「ねえ、終わったらちょっと遊ばない?」
公園の端にある小さな林の影に、何か秘密があるらしい。悠真はわくわくした気分でうなずいた。
体操を終えると、二人はノートとスタンプ帳を手に、ツル植物に絡まる古い木の階段を登った。草に覆われた階段の先には、小さな池があって、そこにはヒツジ草が白い花を咲かせていた。
「これは…ヒツジ草だよ。羊の毛みたいだからそう呼ぶんだって」
夏音が教えてくれた。悠真は初めて見る花に、静かに息を呑んだ。
それから、毎朝少しずつ体操帳にスタンプがたまっていった。
「25日目!」と夏音。最後のボーナススタンプを押すと、白い花びらのようなスタンプが欄に咲いた。
夏音はふと、小さく笑った。
「これ、10年後に見たら、すごく懐かしいと思う」
悠真も心の底から笑った。
夏休み後半、台風の影響で数日連続で体操が中止になった。二人は会えなかった。翌朝、久しぶりに再開した会場はいつもより静かで、少し虚しかった。
夏音は悠真を見つけると、笑顔を作ろうとして息があがっていた。
「遅れちゃってごめん…!」
悠真はただ、「おはよう」と言ってノートを差し出した。そこには、互いの名前が大きく書かれていて、お互いのスタンプが並んでいた。
「一緒のスタンプ数は…38だね!」
ふたり分の体操日数を足してLINEかなと思いながら数えると、夏音は目を見開いた。
「38…38…」
急に顔が真っ赤になった。悠真はどうしたんだろうと思った。
「だって…あのさ…ずっと、君と同じだけスタンプ押せたらいいなって思ってて…」
夏音の声は震えていた。悠真は一瞬戸惑ったが、心は静かに温かくなった。
夏休み最後の日。スタンプ帳は満杯になり、大広場にはいつも以上に子どもたちが集まっていた。体操が終わると、夏音は悠真にそっとノートを差し出した。
「これ…一緒に作った夏の足跡だよ。ありがとう」
悠真はうなずき、ノートを大切に受け取った。
その朝、二人は幼なじみとして、ほんの少しだけ近づいていた。
夏が終わっても、二人には日常があった。でも、あの早朝の小さな冒険と、草の匂いと、スタンプ帳に刻まれた笑顔は、心の奥にくっきりと残っている。
いつか大人になってページを開いたとき、二人は思い出すだろう――
夏休みの朝、かすかな風とヒツジ草の匂いと、幼い気持ちが重なっていた一瞬を。
そして、「おはよう」から始まる小さな毎日の尊さを。