【短編小説】閉店前のレコード屋

ミステリー

真夜中の帰り道、山沿いの薄暗い道を走る老夫婦・洋子と洋一は、ランプの灯りに誘われて一軒の小さなレコード屋に立ち寄った。看板には「閉店間近」の文字。誰もいないはずの時間に、暖色系の光が窓辺を満たしていた。

店内には埃の匂いと、かすかな針音だけが漂っている。アナログレコードがぎっしり並び、壁にはジャズからシャンソン、クラシック、見たことのないレーベルまで雑然と貼られていた。

店主は細身の老紳士。温かく、しかしどこか時間軸がずれているような表情をしていた。洋一が棚を漁っていると、そこには「存在しないはずの曲」があった。ラベルには《あなたが選ばなかった未来》と刻まれたモノクロの盤。ジャンルは“時の記憶”。

店主は二人に、ただこう告げた。

「この曲は、未来のあなたたちの選択が描かれる。メロディを聴けば、過去も変わり始めるかもしれません」

帰路、家に置かず、洋一は車の中で針を下ろした。

最初のノイズ。そして、ピアノの一音。次第に溶けるような旋律が車内を満たし、洋子の目に潤いが走った。

——それは、初恋の歌だった。大学に進むか迷っていたあの日、洋子も洋一も聴いていたはずの──しかし二人が選ばなかった別れの歌だった。曲の最後のフレーズは、「その手を離さないで」と囁くように結ばれていた。

翌朝、二人は喫茶店で顔を見合わせた。何も言っていないのに、胸の奥に静かな決意が芽生えていた。洋子は言葉を探しながら口を開いた。

「……あの店、もう戻れないのかな」

洋一はうんうんと頷いた。

「でも、聴いたよね。あの曲を。忘れていた感情が、また、あの夏の匂いが、静かに戻ってきた気がする」

数日後、アルバム制作に関わる若い音楽シーンの話を聞くうちに、二人は再び「自分たちの暮らし」について考え始めた。都会の息苦しさ、子育て、仕事に流されてしまった日々。あの夜の曲が、忘れていた未来を問い直させてくれた。

ある週末、洋一は田舎に帰ろうと提案した。いつか住みたかった静かな山里。洋子も、古い実家の縁側でコーヒーを飲むあの時間を思い出し、うなずいた。

車のトランクには、あのレコードがある。まだ回す勇気はなかったが、時折、誰もいない夜中に「その手を離さないで」というフレーズを、そっと口ずさむようになった。

後日、本当にあの店を探したが、看板の名前も歴史もまったく見つからなかった。いつの間にか、道沿いの建物はなくなり、草むらにかすかな舗装跡が残るだけだった。

それでも 二人にとっては、あの小さな店で聴いた1曲が、人生の交差点になった。

選択はいつも重く、でも逃せないもの。未来はまだ書かれていないから。

閉店前のレコード屋が残した、かすかな記憶。この世界に「本当に存在したかもしれない」奇跡を、二人はこれからも忘れない。

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