夜のコンビニの蛍光灯が、地面に不自然な白さを投げていた。悠はその下に立ち、扉の前で立ち止まった。腹が減っていた。昼から何も食べていない。いや、昨日のカップ麺を最後に、冷蔵庫は空っぽだった。
就職活動はうまくいかず、面接のたびに「ご縁がなかった」と言われた。親にはもう頼れず、家賃も滞納していた。財布の中には、小銭が数枚と、五百円玉が一枚。自動販売機で缶コーヒーを買おうとしたが、なぜかその五百円玉だけは使えなかった。理由はわからない。ただ、手放せなかった。
「今日だけ。今日だけなら」
悠は自分に言い聞かせるように店に入った。冷蔵コーナーを通り過ぎ、パンの棚の前で足を止める。チョコパン。カレーパン。手に取って、袖に隠そうとした瞬間、ふと視線がレジの方に向いた。
そこにあったのは、透明な募金箱。よくあるタイプのプラスチック製。中には小銭と一緒に、手書きの紙が入っていた。何気なく目をやった悠は、その文字に思わず足を止めた。
——「この五百円で、誰かが笑ってくれるかもしれません。」
胸が痛んだ。手に持っていたパンを、そっと棚に戻す。
「誰かが笑うか…」
悠はポケットに手を入れ、あの使えなかった五百円玉を取り出した。銀色の硬貨は、なぜかこの瞬間だけ重く感じた。
気づけば、手は募金箱の上にあった。そして、そっと音を立てて硬貨が落ちた。
チャリン。
その音は、店内のBGMよりも心に残った。
レジの奥にいたアルバイトの女性が、驚いたように顔を上げた。
「ありがとうございました」
悠は軽く会釈して、何も買わずに店を出た。外の空気は冷たかったが、どこか澄んでいた。
その夜、眠れぬままスマートフォンをいじっていた悠は、求人情報の中に一つのボランティア募集を見つけた。災害地の支援物資整理。給与はない。だが、必要なのは履歴書でも資格でもなく、「手伝いたい気持ち」だけだった。
何かに導かれるように、彼は応募のメールを打った。
それが、ほんの少しだけ彼の人生を変えた始まりだった。
その週末、悠は支援物資の仕分け所へと足を運んだ。倉庫の中には段ボールが山のように積まれていて、黙々と作業をする人々の姿があった。最初は戸惑ったが、誰も余計なことは聞かなかった。誰がどこから来たかより、目の前の荷物をどう運ぶか。それだけが重要だった。
作業の合間に、年配の男性ボランティアが声をかけてきた。
「若いのに、えらいなあ。就職活動の合間かい?」
「はい、まあ、そんなところです」
悠は正直に答えた。すると男は笑った。
「俺もね、定年後にやることなくてここに来たんだ。でも、人の役に立つってのは、案外いいもんだよ」
その言葉に、悠はうなずいた。誰かのために体を動かす。ありがとうと笑顔をもらう。ただそれだけのことが、自分の存在を肯定してくれる気がした。
その後、悠は何度も倉庫に通った。ボランティアの合間に、求人情報を探し、履歴書を書き直した。以前よりも少し丁寧に、少し前向きに。誰かのために汗を流した自分を、初めて自分で認められるようになったからだ。
数週間後、地元の小さな物流会社から内定の連絡が届いた。面接のとき、社長がこう言った。
「君、いい顔してるな。働くって、たぶん“誰かを助けること”なんだよ。それが自然にできる人を、うちは採りたいと思ってる」
悠は、その言葉に、コンビニの募金箱を思い出した。
——「この五百円で、誰かが笑ってくれるかもしれません。」
あの五百円は、他人を救ったわけではない。でも、自分を救ってくれた。
初任給をもらった日、悠は再びあのコンビニに立ち寄った。募金箱は変わらずレジ前にあり、今も小銭を静かに受け止めていた。
彼はポケットから財布を出し、今度は五百円玉を三枚入れた。
チャリン、チャリン、チャリン。
音が響いた。変わったのは金額だけじゃない。あの夜と同じ光景が、今はまったく違って見えた。
「ありがとうございました」
今度は、店員にしっかりと笑って返した。
「いえ、こっちこそ」
店を出たとき、空は澄み渡る夕焼けだった。
悠は心の中で小さく呟いた。
——ありがとう、ポケットの中の五百円玉。